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今月のことば

2019年6月号

秋田県柔道連盟会長に就任して

遠藤純男


 元号が平成から令和に変わる本年、平成31(2019)年4月14日、秋田県柔道連盟会長に就任し、その重責を担うことになった。本県連盟は平成30(2018)年4月8日、創立70周年を迎え、記念行事と祝賀会が盛大に執り行われた。
 秋田県の柔道は、故夏井昇吉九段で全てが語られると言っても過言ではない。氏は秋田県警察官として勤務し、昭和31(1956)年第1回世界柔道選手権大会で優勝。翌32(1957)年の全日本柔道選手権大会で優勝。その後、角館警察署長、横手警察署長を歴任し、退官後の昭和60(1985)年から平成14(2002)年まで18年間に亘り、第7代秋田県柔道連盟会長を務められた功労者である。

柔道との出会い
 私は、昭和25(1950)年10月3日に福島県郡山市で生まれた。体が大きく自分のパワーの使い方が解らないヤンチャな子どもであった。小学5年生の時(10歳)に怪我をして整骨院に通院したのが柔道を始めるきっかけになった。小学生時代は、郡山市の神社の境内にあった市柔道連盟が管理する50畳ほどの小さな道場で、受身を徹底的に指導された。
 昭和38(1963)年に中学生となり、自宅から学校まで10kmほど離れていたため、雨が降っても雪が降っても自転車通学を3年間貫き通した。このことが体幹の強さや、脚力、腕力、瞬発力を鍛えることになった。3年間で自転車のペダルの軸を何本折ったか数知れない。
 昭和39(1964)年、中学2年生の10月に東京オリンピックが開催された。テレビに映し出される日本選手の活躍に国民は一喜一憂した。バレーボールの東洋の魔女、柔道では軽量級の中谷雄英選手、中量級の岡野功選手、重量級の猪熊功選手が金メダルを取った。無差別では、ヘーシンク選手に袈裟固で抑え込まれた神永昭夫選手の姿が放映されていた。最終日のマラソンで福島の英雄である円谷幸吉選手の活躍が放映された。グランドで抜かれて銅メダルだった。遠い別世界の出来事としか感じていなかった。

有名な柔道家との出会い
 15歳の目標は、初段になって黒帯を締めることであった。待望の黒帯を締めて福島県中体連柔道大会で優勝し、翌年福島県立岩瀬農業高校に進学した。
 昭和41(1966)年、高校1年生の夏休みに、日本武道館で開催された第1回全国高校武道合宿錬成大会に参加し、他県の高校生と初めて稽古をした。講師の夏井昇吉先生に乱取の稽古をつけてもらった。また木村政彦先生にも寝技で稽古をつけてもらった。ピクリとも動けなかったことが思い出される。また若い講師の貝瀬輝夫先生にも稽古をつけてもらった。この錬成大会が、我が柔道人生最大のターニングポイントとなった。
 3年生の時に、ハワイ移民100年祭のメンバーに選ばれた。鮫島俊隆(鹿児島実業高)、高濱久和(鎮西高)、熊谷政典(福岡電波高)、吉岡強(諫早農高)の各選手らと一緒だった。高校総体はベスト16と振るわなかったが、鮫島俊隆選手が決勝戦に勝ち上がった。氏とは何度も稽古をやっていたので、自分のレベルを計り知ることができ、自信を持つことができた。

日本大学進学
 昭和44(1969)年、東大安田講堂が陥落し、学園紛争が終焉を迎え始めた頃に、日本大学に進学した。入学してすぐ肩を痛めて夏休み前まで稽古ができなかった。この時が人生の中で一番苦しい日々を過ごした。夏休み期間で怪我を完治させ、講道館秋季紅白試合で7人抜きをして抜群で即日三段に昇段することが出来た。この頃から「稽古は試合の如く」、稽古では絶対に気を抜かず、毎日激しい稽古に励んだ。昭和45(1970)年、第1回全日本ジュニア選手権大会が開催され、初代の優勝者になる。その後、昭和46(1971)年全日本学生柔道選手権大会で全て一本勝ちで優勝し、学生日本一にもなった。すべて稽古の賜である。
 その年、全日本柔道連盟強化指定選手に指名され、翌年の昭和47(1972)年2月、酷寒のモスクワを経由してソビエト連邦グルジア共和国(現ジョージア)トビリシ市で開催されたソ連国際柔道大会に出場した。世界で最も過酷な国際大会で、対戦相手がほとんどソ連の選手ばかりであった。その中の強豪クズネツォフ選手と2度対戦し優勝した。この優勝で外国人に通用すると評価され、多くの国際大会に出場できた。

私とオリンピック
 昭和39(1964)年、14歳の少年がテレビで東京オリンピックを見ていた。その12年後の昭和51(1976)年、モントリオールオリンピックに出場が決まった。オリンピック選手として出場するのが決まると日に日に重圧がのしかかって来た。この重圧はオリンピックに選ばれた者しか分からない、表現ができないプレッシャーである。これが「オリンピックに棲む魔物」の正体かもしれない。特に柔道選手が目指すのは金メダルのみである。残念ながら一回戦で敗退したが、敗者復活で勝ち上がり3位となった。日本国民の願いでもあり自分自身の願いでもあったが、期待に応えられなかった悔しさは言葉にすることすらできなかった。
 昭和55(1980)年、モスクワオリンピックに日本は不参加。その後、平成16(2004)年のアテネオリンピックに審判員として参加した。2度目のオリンピックは大きな喜びであった。

スタンディングオベーションの感動
 大観衆が総立ちになり鳴りやまない拍手、歓声、口笛、こういった雰囲気のスタジアムの中で祝福を受けたことが2度ある。1度目は昭和50(1975)年、第9回ウィーン世界選手権大会準決勝戦で、身長215cm、体重170kgの巨人北朝鮮のパク選手を、試合開始25秒、右片襟の背負投で一本勝ちしたとき。投げた感触と、その瞬間の大歓声はまだ耳に残っている。2度目は昭和54(1979)年、第11回パリ世界選手権大会最終日の決勝戦で、ソ連のクズネツォフ選手に右払巻込で一本勝ちしたとき。クーベルタン競技場の大観衆から祝福を受けたことが昨日の如く思い出される。

大学の監督として
 昭和56(1981)年3月に警視庁を退官し、同年4月に秋田経済大学体育科助教授として就任した。柔道部監督に就任し、ゼロからのスタートとなった。勧誘した6名の新入部員と毎日苦しい猛稽古を行い、2年目で全日本学生優勝大会に出場できた。4年目で全日本学生優勝大会ベスト8まで進んだのは快挙であった。選手を強くしたい一心で朝のランニング、稽古にも毎日道場に付き切りの状態だった。気を抜いた稽古をしていると大声で怒鳴る。時には「げんこつ」もした時代である。我々の競技は、格闘技であることを忘れてはならない。気を抜いた稽古をしていると大怪我につながる。そして4年間頑張った学生には、自分の希望する就職先を見つけてやることが最大の褒美であった。

全日本柔道選手権大会
 全日本柔道選手権大会を初めて見た時から、この大会に出場することが夢であった。日本武道館の中央に一段高い試合場が組まれ、何千の観衆の目が集中する。一挙手一投足を見逃すまいとする熱い視線の中で試合をする緊張感は、何とも表現できない喜びであった。昭和47(1972)年、全日本選手権大会に東京代表として念願の初出場を果した。一回戦で敗退したが、やっと一流選手の仲間入りができたと素直に喜んだ。
 昭和48(1973)年は三回戦で敗退。同49(1974)年は準決勝戦敗退で3位。同50(1975)年は緒戦の二回戦で敗退したが、ウィーン世界選手権の代表になった。同51(1976)年に念願の優勝をすることが出来た。待ちに待った夢が現実になった瞬間である。世界選手権大会の優勝よりも、全日本選手権大会優勝は、私にとって柔道の全てであった。
 今後も永遠に、全日本選手権大会は世界最高峰の大会で在ると願うものである。しかしここ数年、盛り上がりが欠けていることが気になる。その要因として考えられるのは、地方代表選手のレベルの低下である。才能のある優秀な学生が大都市に集中し、予選大会で選手同士がつぶし合いの状態である。地方は警察官、刑務官、教員、会社員が代表になるが、仕事の関係でどうしても稽古量が少ない。そのため地方の選手は、殆ど一、二回戦で姿を消すのが現状である。そこで対策として、大学、専門学校の在籍期間中に限り、出身県の予選大会に出場できる制度が必要であると理解してもらいたい。

 最後に、今年は世界選手権大会、来年はオリンピック・パラリンピックが東京で開催される。柔道競技に多くの国民の熱い視線と期待が向けられるだろう。代表に選出される選手諸君は、周囲の声や目を気にせず、プレッシャーを跳ね飛ばし、自分の力を出し切って勝利を勝ちとってもらいたいと願うものである。
                               (秋田県柔道連盟会長)

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