今月のことば
2016年11月号
勝利達成の喜びとともに
~メンタルサポート余話
船越正康
「オリンピックには魔物が住む」という話は、ソウルでの柔道競技を語るとき、関連スタッフの間で真実味をもっていた。世界選手権を含めて参加すれば過半数の選手が優勝してきただけに、1988年ソウルオリンピック最終日に辿りついた表彰台の日の丸は想い一入の感があった。リオで柔道競技の初日が終わったとき、金メダルの獲得を口にしていた2人の結果は、新聞記者の心の中に28年前の感傷を呼び起こしたのかもしれない。若者たちは「負けは負け」と次回に期す心境を吐露していたにも拘らず、ロンドンの惨敗からの復活を願うには魔物を引き出さずにおれなかったのであろう。いずれにせよ勝負事に魔物を登場させる心理は、敗者の詭弁・合理化機制の1つにほかならない。
最終日に金3・銀1・銅8 の結果が確定すると「柔道はよくやった、過去最高のメダル獲得数だ」と称賛の報道に変わるような、メダルを獲得すれば評価される時節である。ステップとしては称賛に値するが、ソウル以前に戻ることは時代錯誤なのだろうか。メンタルサポートに長く関わりすぎた嫌いを反省しつつ、2020年東京オリンピックへ向けて気づいたことを記してみたい。
1987年、私が全日本のサポートに入った始めの頃は、強化合宿と大会に帯同する度に驚く経験があった。5分×20本、休憩なしの元立ちが終わって即6分×5本が加えられる。昨今と違って給水もなく極限対応の猛稽古を課した上で、「金をとれる選手は2人のみ」と担当コーチの評は厳しく、ソウルオリンピックの結果はその通り厳しかった。当時、佐藤宣践元監督は、「銀や銅でもよいと考えるようになったら、アッという間に勝てなくなりますよ」と述べていたものである。国内の競技基準からは想像のつかない判定が繰り返される。審判用のビデオ作製や外国人審判のための講習会を開いても不可解な判定は毎回のこと、故竹内善徳国際柔道連盟審判委員が肩を落としていた。フランス語で采配する審判チームの長が、練習会場で新基準を確認した最後に「いいか、日本には勝たせるな!」と喝を入れる。「そのくらいの仏語ならオレにも分かるよ」、とぼやくのも判定競技ならではの哀話である。
柔道の選手はウォーミングアップを念入りにするが、緒戦の前だけが多い。オリンピックで明らかにウォーミングアップ不足の選手が、「やっぱりね」という溜息とともに敗れる。大会当日へ向けてのコンディショニングの失敗や当日の戦法の変更ミスなど、いたるところに改善の余地がある。これらの多くはコーチングの課題だが、スポーツ心理学の研究テーマでもある。
五郎丸選手のキック成功率の高さが、ラグビーW杯での予選突破時に注目された。祈りに似たポーズとともにルーティンを確立した手法と、メンタルトレーニング指導士の存在がクローズアップされた。スポーツと心理学の接点は多く、今では日常的に使われている専門用語さえある。そこから気になる現象を取り出すと、プラス思考の人、消極的であるよりも積極的な人の成功率が高い。しかしチャンピオンともなると用心が必要である。1度頂点に立てば世界中から研究される。チャンピオンは勝ったときの経験を反復しがちである。試合前のイメージトレーニングで携帯音楽プレーヤーを使用する選手がいるが、バックグラウンドミュージックに優勝時のものを使い、技法や戦術・戦法まで同一のイメージを反芻し始めたら2度目の優勝は遠ざかる。成功した大会と同じランニングトレーニングをこなしながら減量できない選手は、ランニングフォームが精練されてムダがない。同じ距離や時間を走っても体重は減らず、長距離選手のような走りが柔道の実際に合わないのである。
心理データでは、更に以下の傾向が挙げられる。格闘技の系譜にあるからガッツポーズは勝った時の雄叫びに等しい。しかし準決勝までの勝利で派手なアピールをする選手は、最後まで勝ち切れない例が多い。また、プラス思考を信奉する想いから、軒並み「金メダルをとります」と云う。とれなかったら大言壮語、大風呂敷、有言不実行、スポーツマンは嘘つきになる。夢や希望、勇気、感動を与えるパフォーマンスも、「皆で渡れば怖くない」式のマンネリ思考に流れると成長は止まる。インタビューでの対応だけでなく、地力の養成、全力発揮のための準備、戦術や戦法の組み立て等にも甘さが顔を出しやすい。人が模倣できない技や予測の難しいタイミングを身につけていく個性のある選手が勝つ。チャンピオンスマイルに象徴される健康な精神を具現する選手の勝つ確率が高い。大会の準備段階に入ったとき、意欲・勢い・粘り強さを示す選手が好成績を残す。適応力があって心的エネルギー水準の高い選手が国際試合で勝ち残る。落とし穴は幾らでもある。心理データが示すこれらの傾向を踏まえた指導をする必要があると思う。
何年か前のことになる。ジュニアの強化合宿から帰った翌日、1通の手紙が届いたことがあった。「素質もない、センスもない自分が柔道を続けてよいものか?」、キチンとした文字で便箋2枚、悩みを抱える高校選手からの訴えであった。「真面目で曲がったことは嫌い。自分で決めたことは最後までやり通す。基本に忠実なだけに要領は悪い。負けない相手には勝つが勝てない相手には負ける。それが君の柔道だ。しかし君みたいな人がチャンピオンになったとき、柔道は素晴らしいものになる」、心理データを噛み砕いて有りのままを伝えた記憶がある。その選手が試合中のケガで負けた経験を乗り越えて、今夏のリオオリンピックで勝ち切ったときの清々しい顔は誰よりも輝いていた。
柔道界のチャンピオンたちは個性豊かで魅力的な人ばかりである。ところが現役引退後に落し穴に落ちた例がロンドン後にあった。精神作業検査における不健康な状態を表す症状の1つに、「衝動的でブレーキの利かない心理状態」というものがある。身体活動は、疲労感に打ち勝って頑張り続ける気力・推進力が健康な運動興奮を促進する。それによってスポーツマンの目標達成は可能になるが、不健康な運動興奮を増長させると感情的・思慮不足・付和雷同・暴走暴力に飛び火する。現役中ばかりか引退後に放逸になると反社会的行動に発展する場合がある。スポーツに自戒や自己規制が求められるのには、このような心理学的根拠があるからである。
スポーツ選手の不祥事が彼方此方で絶えない理由と、競技で好成績を残す背景心理は、運動興奮の健康・不健康の何れを定着させるかの違いにある。東京オリンピックに向けて油断することなく、思慮を忘れず、明朗・快活で積極・果敢、辛抱強い努力を貫く柔道界であってほしい。リオにも増して、健康で逞しい選手の活躍を期待したい。
(全柔連強化委員会科学研究部特別サポート委員、大阪教育大学名誉教授)
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