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今月のことば

2006年01月

年頭に当って

講道館長 嘉納行光

 平成十八年の正月を迎え、新年のお慶びを心から申し上げる。
 年の始めに当たって日頃心に抱いている事をまとめて考えてみるのも無意味ではないと思い、その一端を述べてみたい。
 嘉納師範が明治十五年に講道館柔道を創始してから今年で百二十四年たつが、一方師範が没してからも実に六十八年になる。思えば半世紀を遥かに越す長い年月であり、師範と接した多くの人々も殆どが鬼籍に入った。朧気な記憶しかないが、私も幼少の僅かな期間ながら師範と接した数少ない一人となってしまった。
 嘉納師範が亡くなったのは昭和十三年五月四日で、私が小学校に入る前の年であった。当時師範の家は現在の地下鉄丸の内線新大久保駅の近くにあり、私は父母達と別棟ではあったが同じ敷地内に住んでいた。師範夫妻の住んでいる家を母屋と呼んでいたと思う。子供のこと故、庭手伝いに師範の家に良く出掛けたのであろう、断片的ながら師範の様子が今でも記憶に残っている。
 師範はエジプトの首都カイロで開かれたIOC総会で、一九四〇年第十二回オリンピック東京招致に成功した後、カナダのバンクーバーから日本郵船氷川丸で帰国途中、肺炎により太平洋上で帰らぬ人となった事は多くの人の知る所である。この知らせは船長より会社経由で留守宅に知らされたが、その時の事を私はかすかに覚えている。それは確か夕刻であったと思う。母屋から誰かが呼びに来て、父が急いで母屋に行き、当時一般的であった廊下の壁に掛けられた木製の箱型の電話に向かって、緊張した面持ちで話していた。おそらく私は仔犬の様に父の後を追ってついて来たのであろう。はっきりした事は分からないが、これは日本郵船から師範が肺炎にかかり重態である事を知らせる第一報ではなかったかと考える。その後も葬儀等の事については殆ど記憶にない。併し、母屋の二階の二間続きの和室一杯に飾られた生花の中に、埋まる様に遺体が安置されていた事や、師範の家を弔問に訪れる人の波が絶え間なく続いていたのを覚えている。当時の私には知る由もなかったが、オリンピック東京招致の目的を達成した後の帰国途上の死と云う事で、新聞は連日の様に師範の事を大きく取り上げたと聞いている。又師範の高弟の一人は、嘉納先生は立派な死に花を咲かせられたと云ったと云う。この様に師範の最期は極めて劇的感動的シーンと云えるものであった。
 この様な師範の死も今では遠い昔の事となったが、今日尚師範は偉大な教育者として又講道館柔道の創始者として、忘れ去られる事なく世界に高く評価されている。それは師範が偉大であり又講道館柔道の優れた本質い由来するとしても、そこに至る迄の経緯を客観的に掘り下げて見ると、幾つかの特徴があげられる。
 第一に、師範の青年時代は明治維新の最中で、当時開国間もない日本が列強諸国に呑み込まれない為、近代化を急ぎ国を護るのに国民が共通の緊迫感と危機意識を持っていた時代であった。若き師範が国を思う気持を強く抱いたのは当然の事であろう。
 第二に、師範は当時唯一の最高学府であった東大を卒業した。ここを出た者は学士と云われエリート中のエリートとして、政界、官界、財界等いずれの分野に行っても将来が大きく保証されていた。
 第三に、師範はこの様な恵まれた状況の中で、総理大臣にあってもそれは一代の事だ。巨万の冨を得てもあの世迄は持って行けぬ。併し人を立派に育てると云う事は、その者が更に他の者を立派に育成して行く事に連がる。従って教育こそ最も生甲斐のある仕事であるとの結論に到達し、この道を選び一生をこれに捧げた。
 第四に、師範と柔術との出会いである。師範は幼い頃から病弱ではなかったがひ弱な体であったので、非力でも力の強い者に勝つ方法はないのかと苦労の末、三人の良き師に出会い天神眞楊流と起倒流の柔術を学んだ事は、多くの人の知る所である。その修行は厳しく、特に始めたばかりの頃の師範の肉体的苦痛は大変なものであったが、これに耐え抜き続け抜いた師範の精神力の強さは、講道館発行の「嘉納治五郎」に詳述されている。この様な修行を重ねる過程に於て、殆ど素手でいかなる武器を持った相手に対しても、身を護り相手を制すると云う柔術の奥深さと魅力を師範が深く感じた事は当然考えられる事である。そしてこれを師範が一生の使命とする教育に有効な手段として活用できないかと考えた時、講道館柔道の誕生が始まったのである。
 柔術は本来武術であり、命のやり取りを目的としたものであるから、当身の様な危険な技は形として残す事でこれを除く等、師範ああらゆる面を慎重に検討した上で、精神的、教育的、体育的、競技的内容を織り込んだ講道館柔道を創始し、これを学ぶ事によって心身共に健全な人間が育成され、社会に貢献する事を望んだのである。
 第五に、教育の有効な手段として創始された講道館柔道は、師範の努力と熱意によって具体的には学校教育の一環として取り入れられる事となり、その後の全国的普及発展の大きな力となった。又学校教育に組み入られた事により、在学中柔道に興味を覚え、柔道の練習に打ち込み、又師範の説く講道館柔道の精神に共鳴した幾多の若者達が、卒業後教育界は勿論の事、政財界等各分野に散って行った事から、柔道は様々な職域に深く根を下し発展すると云う日本でしか見られない層の厚い広がりを以て歴史を重ねて行く事となり、現在の世界の柔道としての普及発展の大きな原動力となった。
 以上の様に見て行くと、師範が最高学府を卒業したと云う事は、恵まれた境遇として師範の様々の活動に大きくプラスしたであろう。併しその様な有利な状況にありながら師範は揺るがぬ信念によって、最も地道で又俗的には物質的な還元を多く求めぬ教育の道を選びこれに一生を捧げた。師範が柔術と出会い、良き師に恵まれた事はすでに述べた通りである。
 最後に師範の性格について論ずるならば、師範はおよそ私利物欲とは無縁の人であったと云うことができる。これは師範を一番良く知っている父が生前云っていた言葉であり、又師範と接した多くの人達も等しく述べている事である。眞の教育者にとって私利物欲がないと云う事は最も大切な要素であろうが、思うに私は師範が州養によって、或いは努力によってその様な境地に達したと云うよりは、うしろ生れながらの天性ではなかったかと考える。そしてこの様な師範の無私無欲の人格こそが、師範の一生を通じて活動業績の根源をなしていたと云えるであろう。
 終わりに一言云うならば、私が柔道界に深く関わる様になってから早いもので二十五年が過ぎた。当初私は幾多の困難を克服して講道館柔道がここ迄発展して来たのは、嘉納師範が偉大であったからだと考えていた。勿論これを否定するものではないが、それにも増して、師範の意を継ぎ講道館柔道の本質を守り、今日迄引き継いで来たそれぞれの時代の柔道人の存在があったからだと思う様になった。私が柔道界に来た当時は、長老と云える方々と私との年齢の差は叔父、甥ほどあったが、若輩の私を温かく支えて下さった。これ等の多くはすでに物故されているが、皆共通して師範を深く敬愛し柔道を心から愛する方々であった。時の経過と共に気がつくと、何時の間にか私より遥かに若い人々が大半を占める様になった。中にはつい先頃迄選手として活躍していた人もいる。そして嘉納師範の理想とする講道館柔道の原点に帰ろうとして、数年前から始められた柔道ルネッサンス運動の中心となっているのは、時代を担う中堅、若手の人達である。伝統とはその本質をただしく継承し次代へ伝えて行く存在があってこそ維持されるのであって、我が日本の柔道界にとって、次代を安心して任せられる人達が今や立派に育っている事を実感するに勝る喜びはないであろう。

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