今月のことば
2017年6月号
生涯にわたる柔道の効用と振興
岡田修一
はじめに
2020年、東京にてオリンピック・パラリンピックが開催されます。国はスポーツ庁を中心に、それらの開催を好機にして、スポーツの価値を具現化することによって、一億総スポーツ社会の実現を目指した取り組みを進めています。柔道はオリンピック・パラリンピックでの活躍が期待されていますが、スポーツとしての競技だけでなく安全能力の向上、すなわち日常生活の中での不測の危害や事故から身を守り、身体の安全を確保するという高い安全効果に係る価値を有する武道でもあります。
一方、2020年には、我が国は65歳以上の人口が29%となり、世界で最も高齢化が進んだ国になります。このような超高齢社会にある我が国では、高齢化に起因する様々な社会的な問題が浮上しています。その中の1つに高齢者の転倒問題があげられ、転倒による骨折が寝たきりを引き起こし、それによって重篤な結果を招くことが知られています。
転倒は、自分の意思に反して、足底以外の身体の一部が地面あるいは床に着くことと定義されますが、柔道の稽古で投げられた時の身体は転倒と同じ状態となります。このことから、柔道という種目特性が転倒予防に何らかの効果を及ぼすのではないかと容易に予想できるものの、この観点からの研究は質・量共に十分ではないように思われます。
筆者は大学に奉職以来、教養教育での柔道を指導して来ましたが、その経験を踏まえながら、若年者や高齢者の柔道修行者を対象にした研究成果を発表してきました。本稿では、柔道の練習によって身に付けることができる転倒予防や転倒時の頭部への衝撃軽減に寄与する2つの能力に関して概説し、柔道の振興に資する、生涯にわたる柔道の効用について述べたいと思います。
柔道練習が外乱時の立位バランス能力に及ぼす効果
加齢と共に運動機能は低下しますが、中でも立位バランス能力の低下が著しいことが分かっています。バランス能力の低下は転倒を引き起こす大きな要因です。 柔道では、いかに相手のバランスを崩すか、いかに自己のバランスを保持するかが、その勝敗を大きく左右します。また、相手の瞬間的な「崩し」によって生じるバランスの乱れをできるだけ速く復元する能力は、競技力向上ばかりでなく、日常生活における転倒防止に役立つ重要な身体的能力でもあります。これらの観点から、立っている床面を不意に前後方向に急速移動・停止させ、つまずきや滑りの状態を模擬できる外乱装置を使用し、30年以上習慣的に柔道を行っている高齢柔道家(7名、平均段位7.2段、週2-3日少年柔道の指導)と10年以上ほぼ毎日歩行運動を実施している高齢者(8名)を対象に、外乱に対する立位バランス能力を比較しました。その結果、高齢柔道家は歩行運動を実施している高齢者に比べ、平均で復元時間が28%、動揺距離が27%少なく、高齢柔道家の方が外乱に対して不安定な状態から安定した状態に戻すのが速く、バランスの崩れも小さいことが明らかになりました。このことは、継続的で習慣的な柔道練習は外乱に対するバランス能力を向上させ、高齢者の転倒予防に貢献する可能性を示唆しています。
柔道練習が頚部筋力に及ぼす効果
初心者指導において、受身の練習時や投げられた際の頭部の不安定さが非常に気になります。初心者は後ろ受身の際、頚部を屈曲することが難しく、頭部が畳に接触する場面が多く見られます。そこで、大学の柔道選手(48名)と一般学生(28名)及びラグビー選手(28名)を対象に、頭部の固定に関与する頚部の屈筋力と伸筋力を測定したところ、柔道選手は一般学生に比べ、屈筋力では平均2.5倍、伸筋力では1.5倍の大きな値を示しました。また、柔道選手とラグビー選手を比較すると、伸筋力では差はみられないものの、屈筋力では柔道選手の方が1.4倍もの大きな値を示しました。この結果は、柔道練習によって頚部の屈筋力と伸筋力が増加し、その増加度は屈筋力の方が伸筋力よりも大きくなることを示唆しています。このことから、柔道練習は後方転倒時に頚部を屈曲し、後頭部が地面に打撃するのを防ぐ効果が期待されます。実際これまでの授業から、個人差はあるものの週1回90分授業の開始後5週目頃に、初心者の男女共、後ろ受身や投げられた際に頚部は屈曲され、頭部が安定することを多く経験しています。おわりに
筆者の研究成果から、長年柔道練習を行っている高齢者は転倒発生状況を模擬した外乱に対するバランス能力が優れていること、並びに若年柔道修行者は頚部の屈筋力と伸筋力(特に屈筋力)が優れていることが明らかになりました。これらのことから、柔道の練習は、転倒の予防と転倒した場合の頭部の障害予防につながることが考えられます。柔道では、投げられた時に頭部の保護や衝撃の緩和のために受身の練習をします。換言すれば、受身は転倒時の傷害予防に有効な動作です。有効な受身を行うには筋力に支えられた技能が必要となります。子どもの頃から受身の動作を習得させることは、将来の転倒時の傷害予防につながるものと思います。また、生涯にわたる柔道練習は高齢になっても転倒の可能性を低くすることが期待されます。
少子高齢社会を迎えている我が国において、子どもから高齢者まで幅広い年齢層での柔道の練習は、世界的な課題である高齢者の転倒問題を解決する一助となる可能性を秘めているといえます。そして、この「生涯にわたる柔道の効用」という柔道の有する価値について、科学的根拠を示しながら世界に発信することは、今後一層の「柔道の振興」を図る上で重要な意味を持つと思われます。
(神戸大学発達科学部長・大学院人間発達環境学研究科長)
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