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今月のことば

2016年10月号

「少年柔道と頭部事故予防」

永廣信治

 

リオデジャネイロオリンピック柔道競技における日本選手たちの活躍は、日本国民に大きな感動を与えた。いずれの選手も勝負に向かう集中力と心技体の充実が素晴らしく、「一本」を取る強く美しい柔道を随所に見せて頂いたことに心から拍手を贈りたい。これを機に日本柔道に憧れ、柔道を始める少年少女が増えることを願っている。
  現実には、近年日本の少年少女の柔道人口は減少している。全日本柔道連盟では少年少女の人材育成・教育としての柔道を振興する様々な方策を講じており、その効果を期待したい。その1つとして、少年柔道の指導に生涯を捧げられ、昨年亡くなられた白石礼介先生のご遺族が少年柔道の振興のために全柔連に寄付された基金を運用し、少年少女柔道の振興に実績を上げた団体への表彰制度の導入なども計画されている。白石先生は、山下泰裕全柔連副会長の恩師として有名であるが、実は私も少年時代から先生に柔道の手ほどきを受け、藤園中学でも指導を受けたので、少し白石柔道の真髄を振り返ってみたい。
 熊本市立藤園中学校柔道部は、白石先生が昭和35年秋に柔道指導を開始されてから強くなった。白石先生は小柄な体格で、優しい物腰と柔和な笑顔で子どもたちに接していた。稽古は厳しかったが大声で叱ることや体罰などは一切なく、生徒を褒めながら熱心に毎日2時間程の指導をされた。白石先生が指導を始めて10ヵ月後には県下で優勝する力をつけたのだから、その指導力には驚愕せざるを得ない。藤園中の柔道部はその後12年間、全九州、全国を含め1度の負けもなくすべての公式試合を制していくことになった。ちなみに私は4代目主将の岩田久和氏(明治大卒、新日鐵)の時に入学し、その後6代目の主将を務めた。山下副会長は12代目の主将である。考えてみると同じ中学が団体戦で12年間も勝ち続けるためには、よほどの指導力と何か通常とは違うもの、努力がなければなしえないだろう。山下副会長や岩田氏のように1人、2人が強くても、すぐに中学を卒業していくのであるから、常勝チームであるためには5?6人はいつも強力メンバーがいなければならない。最近、往年の藤園中学柔道部のレギュラーメンバーに、藤園中学が強かった理由や思い出を尋ねたところ多くの人から意見が寄せられた。それをまとめると以下のようになる。
 白石先生は一貫して子どもたちを褒めて育てられた。稽古のメニューは打込と、技の研究、試合稽古、補強運動が中心で、自分の得意技を作り上げるのに、何度も何度もスピード感のある打込や、崩しを含む連絡技の打込を繰り返した。技の研究時間も多く、連絡技や寝技への入り方の研究、足技の多用などを生徒の個性に合わせて研究し練習させた。大柄な人にも決して力任せの柔道でなく、柔軟性のある中量級のような柔道を指導された。試合形式の掛け稽古は3、4分の一本勝負で、レギュラーが部員全員の10人くらいと連続対戦する。自分の弱点に気づくための稽古である。後半で疲れた時にレギュラーと対戦するが、疲れたために実力が下の者に負けることを白石先生は厳しく戒められた。体力と筋力増強にも時間をとり、毎日腕立て伏せ100回、うさぎ跳び、腹筋などが練習の最後にある。へとへとだが不思議に気分が高揚し、やり遂げられる。週末には気分転換に鉄棒懸垂、運動場のダッシュ、お寺の階段登り、道場裏のプールで水泳など、眼先を変えて様々な補強運動を導入された。豊富な稽古量と補強運動を繰り返すことで自信と全身の筋力がつき、けがをしない体力も身についた。精神面では、いつも真剣勝負に臨む心や相手に対する礼節の重要性、普段の生活での人間としてのあり方などを説かれた。そして何よりも重要なことは、このような厳しくつらくも楽しい練習を乗り越えた人たちは、今でも自分の人生の原点は藤園中学柔道部にあると感謝していることである。
 但し、光があれば影もある。私が主将の時、練習中に部員の重大頭部事故が起こった。通常は白石先生が来られる前には練習はしていなかったが、私の時代は連勝がストップするかもしれない危機感もあり、先生の来場前に私の判断で自主的に練習していたのである。今から考えると自分が間違っていた。中学1年生の初心者が乱取中に体力差のある相手に投げられ頭を強打した。意識をなくし校医に頭蓋内血腫と診断され、救急車で病院へ搬送され開頭手術を受けた。私も付き添っていたのでその状況を鮮明に覚えている。一命はとりとめたものの後遺症を残してしまった。私にはこの事件への悔恨が大きく心に残り、その後脳神経外科を専攻するきっかけとなった。
 しかし全柔連の医科学委員会で重大事故例を解析する機会を得て愕然とした。極めて稀と思っていた重大頭部事故が年間4、5例発生していたからである。解析の結果、中学1年や高校1年の初心者で受身が未熟な場合や体力差が著しい相手に大外刈などで投げられ後頭部を強打した場合に発生しやすいことが明らかとなった。投げられる人の頭には首を支点としたとした回転加速度が加わる。受身はこの回転加速度を減少させるが、受身が未熟だと緩衝できずに頭が揺さぶられ、脳の架橋静脈が断裂して急性硬膜下血腫を発生するのである。一方、熟練者は受身を意識しなくても重大な事故は起こりにくい。重大頭部事故の発生機序は明らかなので、初心者への対策をとることで事故を減少させ限りなくゼロにすることができる。初心者には受身や体力増強、技の指導を中心とし、大外刈など危険な技の投込や乱取を控える、脳振盪は重大事故の前兆ともいえるので競技を止めさせ、症状消失後に段階的に復帰させる、などである。全柔連では『柔道の安全指導』の改訂(2011年と2015年)を行い、指導者への安全講習を義務化して啓発活動を行っている。2011年以降には柔道による重大頭部事故は半減し、死亡事故も3年間ゼロとなった。しかし昨年と今年は再び事故が発生している。継続的な啓発活動の必要性を痛感するとともに、柔道指導者だけでなく競技者や支援者など柔道に関わる人々すべてが、何故このような事故が起こるのか、防止するにはどうすべきかを知ることも重要と考えている。
 嘉納治五郎師範は、女子柔道草分けの安田勤子さん(徳島の知人開業医の祖母に当たる方)の入門にあたり、入門前の安田さんの体質が極めて病弱なので、その指導方針を迷われたそうである。嘉納師範の著述には、最初の1ヵ月は体力や筋力増強、次の1ヵ月に柔の形、3ヵ月目に受身を指導したとある。この段階的指導で安田女史の健康はめきめき回復し、女子柔道発展に尽力することになったと記されている。嘉納師範が創設された柔道は世界に広まり、その「精力善用・自他共栄」の精神や体力強化、人間形成を重視する柔道哲学は世界中の子どもと大人に愛されている。一方で重大頭部事故や脊髄損傷などで苦しむ人たちが存在する事実に目をそらすことはできない。これらの重大事故を限りなくゼロにすることと、強く美しい柔道を実践することは決して両立できない道ではなく、真の嘉納柔道に近づく道の1つではないかと考えている。
 医科学委員長として、今後も重大事故ゼロに向けて努力していきますので、皆様の協力をよろしくお願いします。
(全日本柔道連盟医科学委員会委員長・徳島大学脳神経外科教授)

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