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今月のことば

2006年11月

講道館の歴史から
 嘉納治五郎師範の理念に学ぶ

押切 義春

(一) はじめに  日本人の品性や道徳が問われ、国家の品格が大きな話題を呼び、さらに最近では武士道論が静かなブームとなっている。それはかつて、武士達の高い倫理観・礼節の心・誇と勇気・弱者への思いやり等、日本人の伝統的な美風が失われつつあるからだ。この為、美風社会を取り戻す意識改革は決して容易なことではないが、改めて、嘉納治五郎師範の人の道として、万人に響く理念の発信が広く求められる所以である。
 1994年、ジョンズ・ポプキンス大学教授レスター・サラモン博士は、米国の有名な外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」に発表された、「福祉国家の衰退と非営利団体の台頭」に関する論文で、日本の旧秋田藩の感恩講(日本で最初の救済組織=1829年)を取り上げ、当時の美風を高く評価し、これはNPOの原型であると指摘した。さらに、サラモン博士は1995年に発生した阪神淡路大震災のあと、自ら来日して、被災地を見舞う他、各地で、NPOによる慈善救済活動を説き、多くの日本人へ感銘を与えたのである(のちに特定NPO法は成立し、現在各分野で活用されている)。
 武士社会は幕藩体制の崩壊のあと、明治維新によって滅亡した。しかし、その時以来、日本の近代国家を懸命に創造してきたのは、武士道精神を学んだ人達なのだ。
 今から、六十一年前、日本は敗戦(1945年)により、全てを失い、飢えと貧しさに耐え、忍び、焼土から立上って、今日の繁栄の礎を築き、豊かさを享受することができた。この底流にも、敗者へのいたわり、弱者への思いやり、貧者への支援等、「自他共栄」の精神が共有されていた。
 しかし乍らその後に於いて、倫理よりも、拝金思想の風潮が、日本人の美風を蝕ばむようになった。とりわけ「経済至上」主義は貧富の差を拡大しながら、福祉・教育・雇用・社会秩序まで及び、格差問題は深刻な課題のひとつとなり、「世の補益」の精神とその必要性が益々増大している。
 又、世界的、グローバル化の進展のなかで、柔道の国際面では戦後、日・仏が中心となり、十七ヵ国によって、国際柔道連盟が結成(1951年)された。その後、礼法の意義(人間形成)、柔よく剛を制す(技の魅力と理合い)等、嘉納師範の理念(教訓)が各国へ浸透するにつれて、現在の加盟国は一九五ヵ国に達している。ちなみに、これはバスケット、サッカーに次ぐ世界第三位の規模である。
 この背景には五輪競技として注目度も高いこともあるが、柔道の競技が多角的に進化している現状を、よく注視しなければならない。総合的な視点では最近の世界的傾向として、礼法順守をはじめ、心・技・体の正しい柔道美学を志向する動きが顕著になってきた(形の演技大会等)。この現象も、嘉納師範の理想とされる柔道は勝負だけで終るのではなく、それをこえる「己の完成」の教育的価値が徐々に認識されてきたと云える。
 しかし、その一方で、依然として、勝利至上主義にこだわる場合も少なくない。又、審判員のレベル・選手及び役員のマナー品性に関する問題・発展途上国への支援のあり方・紛争当事国との対応等、課題も多くなっている。
 いずれにしても現代は、文明の衝突以来、戦争やテロ事件に、おののく不安な情勢にある。今、まさしく師範の教訓、「己の完成」「世の補益」「精力善用」「自他共栄」等を世界の精神文化として、その具現化を図る意義は極めて大きく、これは武士道精神の重要な発露でもある。現在、柔道ルネッサンス運動は人づくりや社会貢献活動など地道な努力を重ねており関係各位のご労苦に心から敬意を表するものである。

(二) 嘉納師範の御幼少時代
師範ご誕生された万延元(1860)年は日本へ開国を迫るペリー来航から七年を数え、動揺する幕府の開国政策に対して、攘夷運動も一段と熾烈となっていた。
(1) 「桜田門外の変」幕府の大老、井伊直弼が攘夷派の水戸浪士らによって暗殺された。
(2) 勝海舟が咸臨丸艦長として、日本人だけの操船により、初の太平洋横断に成功し、 米国では大歓迎をうけて注目を浴びた。
(3) ロシアの南下政策は清国のウラジオストックを割譲させ、日本への脅威が増してい た(この動きは日露戦争の遠因となる)。
次に、師範の歩まれた激動の時代を辿ると、三歳の時(1862年)に生麦事件・寺田屋事件、五歳時(1864年)では蛤御門の変・池田屋事件そして、八歳時(1867年)に於いて、鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争へと戦禍は拡大した。しかし、師範は動乱の波にさらされながらも七歳より、儒学者山本竹雲先生のもとで書道・儒教を真摯に学ばれた。儒教とは孔子を祖とする教学のことで、四書五経を経典とする儒教道徳は徳川幕府の中心的規範となっていた。従って、師範も又、孔子の教えとして「礼」は日常の礼儀作法に加え、もっと深いもので社会の正しい伝統を守る道徳面もご思考されたと思われる。
 この同時期の武士道教育に触れると、各藩では殆どが、藩校を開設して、藩士子弟の教育に取り組んでいた。そこには儒学の学習をはじめ、武士道の徳目になっている義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義等の道義学の研修、さらには武士の心得十ヵ条即ち、眼・速・胆・体・気・計・変・正・法・練等の精神論及び武術の訓練、又、さらに藩としての政治・経済・行政など官僚的な実務も課されていた。誌面の都合で、少年教育について会津藩の場合のみご紹介すると、会津藩は戊辰戦争に於いて徳川幕府への忠義を最後まで貫いた藩で、なかでも、少年藩士による白虎隊の行動はあまりにも心の痛む悲話として有名だ。
 会津藩には藩校日新館があった。ここでは古代中国の軍隊単位である十人一組の例にならい、これを什と命名し、十人ずつを組分けした。そして、毎日、什の掟を唱和させ、文武両道に励んだとされる。

日新館「什」の掟(六歳〜九歳)
(1)年長者の云うことに背いてはなりませぬ
(2)年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
(3)虚言を云うことはなりませぬ
(4)卑怯な振るまいをしてはなりませぬ
(5)弱い者をいじめてはなりませぬ
(6)戸外で物を含んではなりませぬ
(7)戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
以上ならぬことはならぬものです

(三) 嘉納師範と明治維新
 明治元(1868)年江戸城の無血開城により、歴史上、統一国家としての日本国が成立した。師範九歳の時である。維新後、十一歳を迎えた時、六甲山をあとに、文明開化で揺れる東京へ、御父上と転居された(1870年)。
 東京では主として、洋学を学び、英語等の語学については直接、外国人教師のレッスンを受けられると同時に欧米文化も吸収するなど和魂洋才に励む、多忙な時期となった。
さて、明治新政府が最優先として着手したのが、貢進生制度による高等教育政策だった。その理由は新国家の法制・行政を担当させる官僚育成が急務となっていたからだ。貢進生とは各藩を代表する秀才のことで、例をあげると、小村寿太郎(飫肥藩の貢進生でのちに外務大臣として日英同盟締結・日露戦争講和のポーツマス条約等で活躍)がいる。新政府は当時、幕府の最高学問所だった昌平黌を移管して、明治二(1869)年、開成所を開設し、各藩へ貢進生の推薦を要請した。

〔貢進生入学基準〕
(1)入学年齢十六歳から二十歳までの者
(2)洋学知識を有し武芸に秀れ藩を代表する者
(3)定員、大藩(十五萬石以上)三名、中藩(五萬石〜十五萬石)二名、小藩(五萬石以 下)一名 総数四○○名
(4)藩費にて、貢進させること
(5)貢進生以外の通学生は三○○名とする

 明治三(1870)年政府は開成所を大学南校(文系)と大学東校(医学理系)とに区分した。
 さらに、明治四(1871)年廃藩置縣の断行により、日本は三府七二縣となり、武士による藩は事実上、消滅した。又、貢進生制度も中止になったが、既に在学中の貢進生はそのまま進学するか、或いは司法省に新設の法学校へ法律研修生として採用される者もいた。
 師範は十六歳になられ、東京開成学校(のちに東京帝国大学に改編=明治十年)へ入学し、貢進生との画期的な出会いと、切磋琢磨の機会が巡ってくるのであった。
 師範の自伝によれば学問では負けないが「貢進生の腕力には口惜しい思いであった」との主旨を述べられている。この貢進生を何としてでも倒したい師範の固い信念のもとで、種々運動を試してみたが柔術にその答えがあることに気づかれた。柔術は武士社会の崩壊に伴い、江戸末期では約二百の流派が存在したが、明治初期に於いて、六十七流派に減少していた。師範は直ちに、御父上に柔術修行を願いでたのだが、御父上は新しい時代の流れに相応しくないことから、反対だった。しかし乍ら、師範は御父上への説得を続け、天神眞楊流、福田八之助先生の門を叩いた(1876年)。続いて、宗家の磯正智先生(1878年)次に起倒流、飯久保恒年先生(1880年)へ師事し、柔術との運命的な修行を深めた。各先生の教えに加え、師範自身も、普遍的な動作・重心変化の原理・技の合理的な真理の探究に励まれた。更に、柔術の奥義を極めるうちに、人の道として大切な教義があることを悟られた。この悟りの境地に達してからは柔術修行も、師範の新たな教育哲学の課題となった。師範は後年、柔道を世に問う場合、教育的建学精神を広めれば「世」の為、「人」の為になる信念を貫かれたのである。
 明治維新は吉田松陰・坂本龍馬など大勢の前途有為な若者が犠牲となった。その損失は極めて甚大で、彼等の死と崇高な「志」は現在でも、歴史的に正視されている。特に、師範は自ら、維新動乱の渦中にあって、人命と平和の尊さを御心にこめられて、「精力善用」並びに「自他共栄」等を思考されたものと思われる。師範の示す理念の意義は、着実に伝承され講道館の不滅の金字塔として何よりも「重い」ものになっている。
 明治十四年、師範は東京帝国大学を卒業されるが、その後も、武道の求道精神・道義学の研鑽及び柔術の集大成とその確たる再構築に専念された。
 明治十五(1882)年窮極的に、柔術と教育原理との融合を計る、師範の壮大な構想力によって新しい体系が出来上がった。つまり柔道の誕生である。
 これを機に、永昌寺に於いて、人倫の道を説き、柔道を学ぶ所、即ち、講道館と命名の上建学し、歴史的な第一歩を印すことができた。その時、この小さな講道館道場へ馳せ参じたのは青雲の志士、僅か十名だった。しかし、若き志士達は師範の目指す新しい柔道への理想に、心底からの尊敬と憧憬の念をあつめて、厳しい環境にも拘わらず、修行に励んだ。
 講道館の大きな未来志向のもとで、柔道は明治という新時代と共に、世界へ、力強く、羽搏いたのだ。
師範、二十三歳のときである。

(講道館評議員・国際部審議員)

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