今月のことば
2018年8月号
スポーツと嘉納イズム
友添秀則
暴力はスポーツの構成要素か
今年のゴールデンウィークの最終日、強豪大学同士の親睦を目的としたアメリカンフットボール定期戦での小さなプレーが、その後我が国を揺るがす大きな社会問題となった。当初、意図的に相手にケガを負わせるタックルを行った当該選手に非難が集中した。しかし、悪質なタックルに至る経緯が分かるにつれ、これを命じたとされる監督・コーチや上意下達の命令と服従という日大アメリカンフットボール部の構造そのものの問題性に非難が向けられるようになった。
周知のように、スポーツという文化は、社会において多くの人々の支持を失くした時に衰退する。まだ記憶に新しいが、平成25(2013)年に発覚した全柔連女子ナショナルチーム選手への指導陣からの暴力行為やパワーハラスメント問題は、その後深刻な柔道競技登録者の減退を招いた。残念なことだが、全柔連の暴力・パワハラ問題と相前後して起こった、大阪の高校生の部活顧問からの暴行での自死問題以降も、スポーツ指導場面における暴力や体罰の現状は、あたかも、暴力がスポーツという文化を構成する要素の1つでもあるかの様相を呈する。直近の6月、全九州高校体育大会のバスケットボール男子準決勝での、審判の判定を不服としてコンゴからの留学生選手が問答無用で審判員に暴力を振るうという事例は、まさに、スポーツという文化そのものへの破壊行為の具体例と言えるだろう。
ところで、全柔連女子指導陣の暴力問題を受けて、時の文科大臣は平成25年2月に「日本のスポーツ史上最大の危機」との警鐘を発したが、それ以降のスポーツ指導場面における暴力・体罰問題の調査結果を見ても、スポーツに関わる人々の心根は何も変わっていないと言わざるを得ない。朝日新聞による関西の強豪大学の運動部員への調査(平成25年5月)では、小中高時代に約3割の学生が体罰を経験し、そのうち、指導者との信頼関係等があれば、約6割が条件付きで体罰を容認すると回答している。他方、高校野球指導者の実態調査(平成25年春)でも、暴力問題が社会問題の渦中にあっても、指導者の約1割が体罰は必要であると回答している。さらに、JOCのトップアスリートへの実態調査(平成25年3月)でも約1割が暴力を経験(206人⁄1798人)したと回答している。
なぜ、暴力が起こるのか
なぜ、スポーツ指導の現場で暴力が起こるのか、これには多様な解釈が可能である。ここでは3点のみ指摘したい。第1に我が国のスポーツ界の支配的原理に「追いつき、追い越せ」主義がある。例えば、中学校3年間あるいは高校3年間という時間的制約の中でのみ、結果が希求される。もちろんこれは選手ばかりではない。雇用された監督やコーチも短期間での成果に自らの生活をかける。1番手っ取り早い指導法は、選手の燃え尽き症候群を度外視すれば、火事場の底力のごとく、暴力が効果的である。
第2には誤った勝利至上主義がある。競技スポーツであれば勝利が追及されるのは当然だが、勝利が名声やカネや就職、進学のためとなれば、勝利は目的ではなくその実「手段」となる。本来的な意味での勝利追及主義、つまりは純粋に勝利が目指されるのではなく、勝利が手段になる時、暴力が蔓延する。
第3には運動部、スポーツ集団の特異な権力構造がある。閉鎖集団の中で強者と弱者の選別が行われ命令と服従が行動原理になる時、この構造の強化に暴力が用いられる。
スポーツ観の転換と嘉納イズム
どうすれば、暴力が根絶できるか。何よりも、国民のスポーツ観の転換が必要である。「私の勝利」と「相手の敗北」を足せばいつもゼロになるスポーツ観を「Zero-sum game(ゼロサム・ゲーム)」という。私の幸せは相手の不幸である。幸せと不幸の和は、さしずめゼロということになる。現代スポーツを支えるこの種のスポーツ観は、誰をも幸せにしない。相手は打ち負かす敵であり、敗北は悪となる。
しかし競技スポーツは、見方を転換すれば、互いがより高次の自己に到達するための絶好の場であり、試合や練習は卓越性を相互に追求する機会である。相手は自らを高めてくれるパートナーで、相互にスポーツを通して高め合う。このように「勝利至上主義」から「勝利追求主義」へ、そして「卓越性の相互追求」としてのスポーツ観への転換を図らなければ、スポーツという文化はやがて衰退の道をたどるだろう。
実はこのような卓越性の相互追及としてのスポーツ観の原型をすでに100年程前に確立し、それを生涯に亘って世界に広めた人がいた。それは嘉納治五郎師範である。嘉納師範は、柔道をせいぜいが身体を強健にし、精神を鍛える一種の武道と考え、講道館をそういった柔道の普及団体と考える社会一般の柔道や講道館に対する認識を根本から変革させようと試みた。そして苦心の末に、哲学や宗教などの在来の教えや戒めは複雑すぎるので、なるべく簡潔に、各自の行動を律する庶民にも理解可能な、いわば柔道を母体とした実践哲学を具体的に創造した。
当初は「精力の善養利用」という言葉で語られた柔道の理念も、次第に柔道の技術体系の力学的合理性を個人の生き方として普遍化させながら、精神、身体の働きを最も有効にかつ善く用いることで、自己の人格の完成がなされるという、より倫理的色彩の濃い「精力善用」という言葉で表現されるようになる。そして、個人原理としての精力善用が各自においてなされる時、国家や社会にとっての普遍的原理である「自他共栄」が完成されるという。この嘉納師範の哲学、「嘉納イズム」は1人の人間が「個人倫理としての精力善用」と「社会倫理としての自他共栄」を、柔道の厳しい修行の中で体得できれば、「己を完成し世を補益する」という柔道の最終目的が達成されることになる。柔道とは人間の行動の根本原則の名前であり、宗教や哲学の学説と目指すところは同一の思想として、嘉納師範によって明確に位置づけられたのである。
嘉納師範はクーベルタン氏のスポーツによる人間形成に着眼したオリンピズムに賛同したが、今やオリンピックや現代スポーツはドーピングや暴力、八百長、人種差別等の難問を抱える。今こそ、嘉納師範の考案した嘉納イズムなる実践哲学からスポーツの本質を再構築すべき時ではないか。
(早稲田大学教授・スポーツ庁スポーツ審議会会長代行)
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