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今月のことば

2008年12月

檜の看板

戸 ? 善 之

 九州の東部、大分県南部の宮崎県境に近い、関あじ、関さば、豊後ふぐ等の豊かな水産資源を育む豊後水道を眼の前に望むところに津久見市がある。私が生まれ育ち、今も生活の拠点として暮らしている町である。津久見市は、人口二万二千人足らずの小さな町であるが、古くから石灰石とそれに関連するセメントや石灰の産業、みかん栽培や漁業の町として栄えて来た。私は、現在この津久見市、その隣接する臼杵市で、父から受け継いだ石灰石鉱山業を主体とする石灰石に関わる産業グループの経営に取り組んでいる。
 その津久見港に面した当社の石灰石の港頭積出し設備に隣接して本社社屋があり、その構内の一隅に「庚辰館」と命名された古い木造建物がある。昔の小学校の講堂を小型にした建物のイメージだ。そもそも「庚辰館」は、私の祖父又兵衛により「庚辰」の年号が示すように昭和十五年十一月に柔剣道場として、また地域の青少年交流の場として自宅前に設立されたものと伝え聞いている。
 戦後、GHQによる武道禁止の通達が解除されると同時に、逸早く戦後の混乱期にも拘らず、地元出身の上野勝幸先生(故人・八段・昭和二十三年第一回全日本選手権に九州代表として出場し、三回戦迄進出)ご指導のもと、津久見市柔道チームの練習の場として、再び「庚辰館」が活用され始めた。祖父又兵衛より事業を受け継ぎ、新たに石灰石・マンガン等の鉱山会社を設立し、事業をスタートさせた私の父利秋(旧制臼杵中〜拓殖大時代、柔道部・相撲部に在籍)も戦後、最初の津久見市チームの選手として、この「庚辰館」で津久見市柔道の基礎を築かれた諸先輩と一緒に汗を流した一人である。
 父は、会社創立二年目の昭和三十四年、社内に早や柔道部・相撲部を設立している。想像するに創業間もない会社に「質実剛健」の気風をという想いが強くあったものと思う。この頃、新たに本社構内に相撲道場を設けたが、時を同じくして二代目となる「庚辰館」も現在の地へ移築された。私と柔道との出会いもこの二代目「庚辰館」である。移築は、創立間もない会社ゆえ、戦前の石灰カルシウム(炭酸カルシウム)工場の資材や古い社宅の木材等を活用し、完成を見た。道場の天井、屋根裏の梁には、石灰カルシウム工場の名残りを示す白い石灰の跡が今でもはっきりと見える。
 二代目となる「庚辰館」も約半世紀の間、弊社柔道部員の鍛錬の場として、地域の青少年の柔道場として使用されたほか、父の肝いりで始まった地元小学生の少年剣道の稽古の場として活用された。また、ある時は父と私の母校でもある拓殖大学相撲部員の合宿場として、幅広く使用されて来た事等も懐かしく想い起される。しかし、半世紀の時間の経過と共に老朽化が著しく目立つようになり、昨年春にその役割を終え、今は、本社構内の一隅で静かに佇んでいる。
 三代目となる「庚辰館」は、昨年五月に当社の厚生会館の中に八十八畳敷きの柔道場と、約百平方メートルのトレーニングルームを併設した冷暖房設備完備の近代的な道場に生まれ変わった。唯一変わらないのは、昭和十五年、今から約七十年前に「庚辰館」と分厚い檜の板に書かれた道場の看板である。時間の経過が物語る様に、その文字は掠れている。しかしこの道場の看板は、今から七十年前の祖父、五十年前の父、それぞれの「庚辰館」設立への想いと共に、当時の儘、大切に受け継がれている。
 三代目の「庚辰館」では、連日勤務を終えた十数名の柔道部員が、全目本実業柔道団体対抗大会他、各種大会を目指し、汗まみれになり練習に励んでいる。その傍らで、当社の現役を退いた五名の柔道部員が交替で地域の小・中学生十四〜十五名を対象に柔道教室を開設している。
 今年、地元大分県で開催される第六十三回国民体育大会「チャレンジ大分国体」へも大分県成年男子チームのメンバーとして弊社社員二名が選手として、一名がコーチとして参加させて頂く予定である。今後も、当社と武道との色々な関わり、また「会社のスポーツ」としての当社柔道部の歴史が刻み込まれた「庚辰館」道場の檜の看板、何時までも大切に守り、伝えて行きたいと考えている。

(大分県柔道連盟会長)

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