今月のことば
2014年06月
技と徳:嘉納治五郎がめざした世界
寒川恒夫
柔道の創始者嘉納治五郎は、昭和13年にその生涯を終えるまで、柔道は武道ではないと主張し続けた。
武道とは武術稽古による心身修養道であると理解する今日の我々からすれば奇異な感がするが、嘉納は武道を武術と同義に考えていた。
武道を武術と理解するのは嘉納一人ではなかった。その当時の常識であった。今日の武道概念は嘉納が生きた明治時代にはまだ現れていなかったし、晩年においてもまだ十分通用していなかったのである。武術稽古による心身修養道という武道概念は大正年間に西久保弘道が発案したもので、その後、緩やかに日本社会に浸透していく。
今日的な武道概念はこのように新しいものであり、しかもその出現にはスペンサーの三育主義教育思想やユべナリウスの格言"健全なる精神は健全なる身体に宿る(べき)"といった西洋思想が関わっている。純に日本古来のものではないのである。武系諸道が社会的存在の根拠とするこの新しい武道概念の創造の功績は確かに西久保に帰せられる。しかし、西久保の武道概念は嘉納の柔道体系論がモデルであった。柔道はスペンサーの三育主義教育思想に基づいて創られていたのである。
嘉納が柔道を創るに際し意を用いたのは、柔道による知育徳育体育の総合教育性であった。彼が殺傷捕縛術を意味する武道の語を避けた理由は、ここにあった。武道と称したのでは、また武道と呼ばれたのでは、せっかくの心身総合教育性がスポイルされる。
嘉納は、生理学的によい身体をつくる柔道体育法と、よい心を(知と徳とにおいて)育てる柔道修心法とを兼ねて実践する中で理想の青年が育つと信じた。盛んに講話を行ったのは、とりわけ柔道修心法徳育(精力善用・自他共栄はその代表)の重要性を具体的に説くためであった。
今日の我々が柔道として行っているのは柔道体育法が進化したものである。そしてそこでは、技や勝利への関心が中心になる。これは当然のことで、試合で勝ちたい、上手くなりたいと願うのは、柔道を始める、また続けるためのごく自然な動機である。このことは嘉納も気づいていた。というより、むしろ競技性を評価していた。明治22年にリンセーとの共著で日本アジア学会誌に英語論文「柔術:昔の侍の武器を使わない武術」を寄せた時、柔術を改良して創った柔道を運動競技(athletics)と表現しているのである。それになにより、危険な柔術と決別するために彼が安全最優先で考案した柔道体育法、つまり相手の身体を痛めることのない物理学的重心崩しによる投技の稽古は、初めから競技化の芽を孕んでいたのである。実際、講道館初の他流試合である明治18年の警視庁武術大会における圧勝が入門者を急増させたように、その後の柔道の国内普及と国際化を支えたのは、競技化に与かる所が大きかった。
ただし、嘉納は競技化が導くであろう負の側面、つまり人間教育と乖離した勝利至上主義を警戒していた。技術は徳を導かない。技術と徳は別物であることを見抜いていたからである。ブレーキをかけるため、嘉納は語る。
「昔の武術を講ずるものが、武士道を説いたのは、本来は独立した離れた道というものを技術に結びつけて説いたのである。だれが考えてみても分る通り、何十年間竹刀で技術を練習しても、投技や逆技の研究をしても、そういう練習や、研究からは、尊皇の精神も、道徳も発生してこない。それでは昔の武士がなぜに武技にも長じ、武士道も心得ていたかというに、それは武術を修むると同時にそういう教えを特に受けていたからである。その道筋は今日でも同様である。道場においてどれほど技術を練習しても、胆力や勇気その他、そういう練習に伴うて自然に養わるる何らかのほかは、望み得らるるものでない。尊皇の精神とか、信義とか、廉恥というようなことは、別に加えて教えられなければ、技術の練習のみでは不可能である。」
もっともな話である。柔道は人づくり、人間教育である。技にのみ秀でた勇ましいだけの人を創ってよいのか。技に人格の教育が伴ってはじめて柔道が完成する。耳の痛い言葉である。技と徳の関係は儒学のテキスト『礼記』が「徳成りて上に在り、芸(技)成りて下に在り」と断じて以来の大問題であるが、近代の儒者である嘉納が心血を注いだ柔道修心法徳育の伝承を、我々はどのように担保すればよいのか。
ドイツ柔道連盟は、昇級昇段審査から競技成績を排除し、柔道の技(受身、五教の技、固技、極の形など)について、これらすべてをよく身につけているか、技術原理をよく説明できるか、柔道の理念・歴史・指導法・マネジメント、またモラルコードについて十分な知識を持っているかを段階的に問う試験に切り替えた。柔道家は競技者である前に柔道文化の体現者であり、伝承者であるべきというアイデンティティー確認が背景にある。徹底の極みである。これほどまででなくとも、日本も何か手を打つ秋に至っている。技と徳は、社会生活を送る人間にとって2つながら重要なものである。元来別物であっても、一人の個人の中に努力によって共存は可能である。
(早稲田大学教授)
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