今月のことば
2021年7月
東京オリンピック・パラリンピック開催に寄せて
山下泰裕
新型コロナウイルス感染症に罹患された方々に謹んでお見舞いを申し上げるとともに、今なお続く新型コロナウイルスとの闘いに日々奮闘されている医療従事者を始めとする皆様に心より敬意を表します。
オリンピック・パラリンピックが一体で開催される今夏の大会には、東日本大震災からの復興や共生社会の実現という重要なテーマが託されておりますが、新型コロナウイルスの世界的流行という困難な状況のなか、ひたむきに自己の可能性に挑戦する選手たちの姿は、長く暗いトンネルの先を照らす希望の光となるものと信じております。国内外で収束に向けた様々な取り組みが行われるなか、国民や選手、関係者にとって安心・安全な大会となるよう、日本政府、東京都、IOC、組織委員会、そしてスポーツ界が一体となり議論を重ねております。
日本とオリンピックの関わりは、嘉納治五郎師範がアジア人として初めてIOC委員に就任した1909年に遡ります。嘉納師範は古流柔術の各流派をまとめ、自他ともに道徳的に高め合うことができ、心身ともに若々しく幸福に生きることに繋がる道として、青少年の育成のために講道館柔道を創始されましたが、「体育」の普及、発展にも熱心に取り組まれました。さらに、中国から約七千人にも上る留学生を受け入れるなど、国境の隔てなく教育に力を注がれた教育者としても広く知られております。一方、時期を同じくして、近代オリンピックの創設者であるフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵により、スポーツを楽しむだけでなく、スポーツを通して心身を鍛え、世界中の人々と交流し、平和な社会の実現に寄与する、「オリンピズム」という理念が提唱されます。嘉納師範が柔道や体育を通じて目指された理念と、クーベルタン男爵が提唱したオリンピズムとは何ら矛盾するところがなく、オリンピズムに賛同した嘉納師範のリーダーシップのもと、日本にオリンピックという存在が浸透していきました。
私自身も柔道によって育てられた一人です。幼少時から飛びぬけて体が大きく、私のことが怖くて登校できないというクラスメイトが出るほどの問題児でしたが、親の勧めで小学4年生のときに柔道を始めました。柔道を通じて素晴らしい恩師たちに恵まれ、試合の勝ち負けだけではない、相手を敬う心、フェアプレーの精神を学びました。柔道や恩師たちとの出会いがなければ、私は小さい頃の暴れん坊のまま大人になっていたことでしょう。近年、心身の健全育成や健康維持の目的から世界中でスポーツに注目が集まっております。東京オリンピック・パラリンピックでスポーツがより身近になり、日本、そして世界の人々がスポーツの素晴らしさに接する機会が増えることは、嘉納師範の理念の実現に近づく大きな一歩であるといえます。
初の日本開催となった1964年の東京オリンピック当時、私は小学1年生でした。テレビにくぎ付けになりながら、日本代表選手たちの活躍を見ていたのを覚えております。その感動は中学2年生の時に作文で「夢はオリンピックのメインポールに日の丸を仰ぎ見ながら君が代を聞くこと」と書くほど強く残りましたが、自国開催のオリンピックはそれだけ人々に影響を与えるということだと思います。最近夢を持てない子どもが増えているとの声を耳にします。今夏の大会において、世界最高峰の舞台で活躍する選手たちの姿を見た子どもたちが、夢や憧れを抱き、これからの人生を目を輝かせて生きていくことのきっかけになればと願ってやみません。
柔道はオリンピックにおける日本の活躍を象徴する競技の一つです。しかしながら国内の競技人口に目を向けると、当連盟の登録会員数は減少傾向にあります。特に2020年度は多くの大会が中止となったことも影響し、登録会員数は前年度に比べ約15%減少しました。中高生の大会では、出場選手の減少でトーナメントを組むことも困難な地域もあり、それによって更に若者が柔道から離れてしまいかねない危機的な状況です。当連盟ではこれまで柔道MINDプロジェクトの推進、少年柔道教室の開催や中学、高校柔道の普及啓発活動、重大事故やハラスメントの根絶、ベテラン柔道、障がい者柔道の振興、国際交流の推進など様々な施策に取り組んでまいりました。コロナ禍においては、安全に競技活動を行うためのガイドライン(新型コロナウイルス感染症対策と柔道練習・試合再開の指針)を制定し、活動制限下でも柔道の活動を止めないよう、公式動画コンテンツの配信や、公認ライセンス講習のオンライン化など、デジタルツールを活用した施策にも取り組んでおります。東京オリンピック・パラリンピックは、柔道界に世間の耳目が集まるまたとない機会ですが、柔道の魅力をより多くの国民に伝えるとともに、選手たちの活躍があらゆる年代における普及振興に繋がるよう、日本柔道一丸となり準備を進める必要があります。また、心身を磨き高め、それにより世に補益する人材を育成するという柔道の目的に立ち返り、社会に貢献し、信頼され続ける柔道界であるべく、ガバナンス、コンプライアンス面のさらなる強化を含め、東京オリンピック・パラリンピック後の諸事業の検討を進めてまいりたいと考えております。
新型コロナウイルスは世界を分断させましたが、柔道、そしてスポーツには文化や国籍の違いを超え、同じルールの中で公平に競い合い、相互理解を深め合える力があります。分断から連帯へ。一生に一度の大舞台で、すべてをかけた選手たちがひたむきに戦う姿を通し、皆様が夢や感動、誇りを抱き、世界の人々が希望を見いだせるような大会であってほしいと願っております。
(日本オリンピック委員会会長・全日本柔道連盟会長)
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