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今月のことば

2005年08月

柔道による人間関係

須貝 忠吉

 人間は人間関係により綴られる。 「生きがい」が人生八十年時代に重きをなしてきた。人生の「生きがい」とは感動である。  詩人ゲエテは「人間は人と関わることによって最高の喜びが得られる」と教えている。  それによると人生の幸、不幸はいかに感動を体験したかに判別されることにもなる。人間という文字は人の「間」と書く、「間合」である。「間合」とは人や物との距離、時間、空間である。昔から日本人にとって世間や他人との関わり「間合」が自分自身の事よりも大事であり関心事である。 「むやみに五体を動かすことなく敵の太刀を触れさせないようにしなければならぬ。それは敵の太刀先と我が身の「間」に一寸の「間合」を見切ることである。受けもかわしもせずに「間合」を見切って凝然と立つわけである。これが不動の位である。」(五輪の書)、生死をかけた極限の闘争での人間関係「間合」の在り方が示されている。自分が斬れる「間合」に入るということは、己れも斬られる生死の間仕切りに入ることにもなる。人の生死に関わる「間合」が如何に重大なものか。間を間違えると「間違って」「間抜け」で死に至る人生一巻の終わりである。  物事のタイミングや「間」の取り方では、話し方がある。立板に水を流すよどみない話し方はそれなりによいのだが、単調に流れてグッと胸に迫るものがない。世に云う名人話家や芸人は「間」の取り方で観客を笑わせたり、泣かせたりの感動をさせるものである。ここで云う「間とは観客と呼吸を合わせることであり、沈黙の占める時間、空間である。「間」にはいろいろある。スタートで引きつける「間」、反応を確かめる「間」、話を味わってもらう「間」等のこと。難しいがこの一瞬の「間」が巧妙なのである。  高度経済成長はなやかな頃に、教育学者大田堯が「問いと答えの間」という問題を提起したことがある。人間の育ち方を養鶏所に閉じ込められて飼育出荷されるプロイラーのように人間プロイラーとして、そこに何が欠けているか、それは「問いと答えの間」とは人間が面倒を楽しむ「間」であり、そこには誰のものでもない自分自身のものを手にするということ、つくるという面白さを楽しむということ、技術や作品の出来を向上させたという三つの動機であると言う。  さて戦国時代の武士の戦いは先ず「問合」の遥か遠い弓矢によって開始される。矢尽きて馬上近く「間合」をつめては、槍刀剣より丁丁発止と渡り合い、決しないとなるや得物を打ち捨て馬上ムンズと組討ち、地上落下するや組んでほぐれつ上になり下になりして敵を膝下に抑え込み、鎧通しで仕止めて勝を制する戦模様となる。戦場組討を原点とする柔道には「崩し」「作り」「掛け」の技の要領があるが、先ず「間合」を作ることから始まる。初心者は初めて相手と組み合った時、どのようにして「間合」を取るか戸惑う、相手の両腕がつっかえ棒になって邪魔であり、足が遠くて進められず壁易の呈となる。「間合」は基本的にはお互いに組んだ腕の長さの距離であるが、それを埋めて接近し夫々有効な技をかけるには、緩急自在、千差万別の「間合」の取り方が存在する。それが時間的にも空間的そして距離的に関連するので、誠に複雑多岐にわたりその工夫の楽しみは数限りなく拡大することになる。「間合」は進退体捌きを基調にして「引く」「釣る」「廻す」「掬う」「透かす」「技を掛ける」「つめる」等による。腕力の強力な者がその場で一挙に引きつけ「間合」をつめての一瞬の「間」のこともある。動かずにその場でつめるよりも相手を誘い引き出し移動させつつ施せばより有効である。「間合」は空間的に距離をつめるだけでなく、時間的にタイミングをずらすことでもあり、大外刈、内股を一瞬受けて技を外す「間合」とタイミングは絶妙の感性が大切となる。距離、時間、空間的に「間合」を自分で掴み、工夫を楽しみ、技術の向上に期すること正に「問いと答えの間」の効果を現出することになる。  人の吐く息使いは、自分の心と体を繋ぐばかりでなく、自分と周りの世界や他の人との「間」を調整する働きをする。息を合わせることによって自分の体と他人の体が一つの呼吸で満たされる。息は空間的な「間合」と時間的タイミングの両方に関わっている。自分が周りの者とどういうテンポで合わせ、どういう「間合」に踏み込んでいくかと息を手掛かりとして掴むのである。「呼吸を計る」と言う。  相手との「間合」が離れ過ぎては、それが臆病となり、かといって詰め過ぎて失敗することもある。物事の火中に入らねば事情、状況が分からぬ。若いうちは迷わず何事も「間合」をつめて入身になるのがよい。遠目からでは相手が見えても、心の内、手の内まで分らないもの、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とある。  二十一世紀に於けるパソコン、インターネット、携帯電話の普及は、通信、情報のグローバル化を促進し、個人の地球規模での通信、情報のキャッチを豊富にし、バーチャルリアリティ(仮想現実)の現象を正当化し、メディアを通してのコミュニケーションの増加をもたらし、大切な生の人間関係の稀薄化に陥ち入り、人との親身による関わり合いより生ずる大事な感動が阻害されることになる。近代化というものは利便性、効率性、経済性などを重要視し、明確な概念によって合理的、論理的に思考することを必要とする。これはともすると人間らしい情味、心の豊かさを欠落させ、ギスギスしたクールな人間関係を生み出したりする。「問いと答えの間」の面倒を楽しむ「間」にしたり、直接人間の膚を接して戦う柔道の「間合」のように、勝負の真剣な場に於て、自己を出し切り技能の向上の「間」にして感動を亨受して、豊かな人間形成を目指すことこそ極めて肝要である。  我が国の四季の移り変わりによる「間」の風土、慣習が、文化の発想そのものの根底に感性として育て継がれてきたからこそ、日本文化は和歌や俳句、書道等という秀れた「間」の文化芸術を発生させたのであり、武道、芸道を育成し得たのである。そしてさらに今後の我々の文化は、「間」という日本独特の個性を生かし続けて、異質の文化を包含し「間」を置いて調和させ日本的なものを生み出し文化を形成し続けるであろう。

((社)北海道柔道連盟会長)

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