今月のことば
2007年08月
「空いた口を塞ぐ」道
冲永 荘一
今年の梅雨はいささか変である。
気象の専門家が言う通り、南米ペルー沖太平洋の海水温が下降するラニーニャ現象が、わが国に空梅雨をもたらしているのだろう。
しかし、それにしても異常である。雨が少ないにもかかわらず、うっ陶しさを例年以上に感じ、イライラ感をつい、募らせてしまうのは何故だろうか。
考え、辿りついたその原因は「空模様」ではなく「世情」である。「空いた口が塞がらない」としか言えないミス、事件、事故がこの六月の一ヵ月間に次から次へと起こったからだった。
社会保険庁の五千万件にもおよぶ年金記録漏れを皮切りに、元公安調査庁長官による土地・建物の売買詐欺、社長が「半額セールに群がる消費者にも問題がある」と開き直った北海道の食品加工会社の食肉偽装、そしてガス検知器さえ備えていなかった東京・渋谷の温泉爆発事故と繋がる。
いずれも、最悪の事態の発覚あるいは発生直後、記者会見に現れた当事者たちに驚かされたのは私だけではないだろう。まるで他人事のような口ぶりで謝罪は体裁だけ、とても重い責任を背負った人たちとは思えず、見ている私たちの方が気分を重くし、不快指数を大きくした。
昨年、私は本欄(七月号)に、わが国の自由を「自制心を持たない自由、自己責任をともなわないエゴイズム(利己主義)を感じる」と書いたが、もはや「感じる」レベルではない。悲しいかな「自分たちさえよければ」の責任逃れ症候群がここまで染み込んできた。
しかし、そんな最中、うれしかったのは、うっ陶しさを一時、吹き飛ばす爽やかな風が吹いてくれたことだ。まるで「梅雨の中休み」のようでさえあった。主人公は「ハンカチ王子」「ハニカミ王子」と新聞に見出しが立った二人の若いアスリートである。
前者、早稲田の斎藤佑樹投手は、神宮球場に若い女性や家族連れを呼び込み、東京六大学野球の復活に火を点けた。後者、高校生ゴルファー、石川遼選手も同様である。男子プロゴルフツアーの優勝をさらった直後の「関東アマ」には、同選手を追って中高年女性を中心に昨年の四十倍ものギャラリーがつめかけたという。
同じスポーツ界に身を置く者として、逸材の登場は大変嬉しいが、彼らに「王子」のニックネームがつき、普段スポーツとは縁のない大人まで夢中にさせてしまうのは、非凡な技、能力によってだけではないと思う。
二人とも言葉遣いが丁寧で、礼儀正しく、思いやりもある、一昔前の日本人を彷彿させるキャラクターの持ち主であるからだろう。いまや「自分たちさえよければ」が蔓延するだけに、世論は彼らに「感動!」の思いを込めて拍手を送っていると、私には映る。
とはいっても、この「爽やかさ」を蹴散らす「うっ陶しさ」があったことも見逃せない。「関東アマ」では、石川選手の同伴競技者にテレビ局が隠しマイクをつけさせようとし、いい絵を撮ろうと取材ヘリを低空飛行させるなど、殺到した約二百人の報道陣の中には「自分たちさえよければ」で暴走するメディアがあったことである。
大会直後に産経新聞は、同紙の記者ブログに読者から寄せられた書き込みのひとつを、こう紹介していた。
「シンデレラボーイの一挙手一投足を?ストーカーまがい?に追いかける姿勢に終始した報道にはあきれた。レベルの低い層に合わせたというか、視聴者を自分たちの低いレベルに落とした」。
社会(世論)の目線で報道すべきメディアがこのあり様では、先に挙げた事件等の当事者たちを追及する資格さえない、と言う声さえ聞こえてくるようだ。
このままでは「一億総エゴイズム時代」の到来もそう遠いことではなくなってしまう。そうはさせないために、わが国はいま、官民一体となって教育改革に取り組んでいるが、この改革にぜひ、柔道の精神を取り込んで欲しいというのが私の願いである。
どこに導入するかというと、育てるべき教師像、にである。それは、教える技術を持つだけの方法論としての「先生」ではなく、範を示す、すなわち心のあり方を導く「師範」を養成すべきということに尽きる。そういう教師がわが国に溢れたとき、「空いた口が塞がらない」は死語に近付いているはずである。
最後にその「師範」の見本ともいうべき一人の柔道家をあげておこう。柔道を志す者は誰でも知っている山下義韶師範である。昭和十年(一九三五年)、講道館から初の十段位を贈られた同師範は、その三十年以上も前の明治三十六年(一九〇三年)に渡米、翌年、時のセオドア・ルーズベルト大統領に乞われて週三回、ホワイトハウス内の書斎を改造した道場で柔道を指南する。
同師範の稽古は体重百キロもある大柄な大統領を何度も宙に飛ばす厳しいものであったが、大統領は師範への信頼をますます厚くしたと聞く。それは何故か。心は謙虚、大統領であれ誰であれ相手にとことん礼を尽したからである。想えば、いま日本が一番欲しい心である。
(東京都柔道連盟会長、医学博士)
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