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今月のことば

2007年09月

柔道ルネッサンス
「精力善用」「自他共栄」

小村 和紀

1.序

 以前、本誌に標題のことについて投稿したことがありますが、修正を兼ねて敢えて再びここに筆を執りました。柔道ルネッサンス実行委員会の委員長山下泰裕先生がロシアのプーチン大統領に嘉納治五郎師範の揮毫された「自他共栄」の書を贈られた深い思いに感動しました。
 「温故知新」(故きを温ねて新しきを知る)・〔註1〕「稽古照今」(古を稽え今を照らす)・〔註2〕「稽古とは、一より習い十を知り、十より帰るもとのその一」、これらは同じような意味があり、誰もが知っている言葉でもありますが、身近に顧えりみることの少ない言葉でもあります。
何事においてもそうでありますが、柔道についてその目標を明確にし、進歩させていこうとするためには、先ずその原点に帰って創始者嘉納治五郎師範の意に触れてみることが大切ではないでしょうか。
今日、柔道は世界の柔道となりました。もとより己を修め人を治める道たることはいうまでもありません。しかしにわかにこれを会得しようとする者は、広くて遙かなさまに迷い、久しくこれを修行する者は、目先のことにとらわれ、本来の道を忘れることも少なくありません。更にその教育にあっては思いつきや、逆輸入によって、柔道本来の教えと古くから受け継いできたしきたりを忘れていることもかなりあります。
 指導にあたっては、技術・理論はもとよりやはり嘉納師範の教育精神に触れ、ややもすると勝負一辺倒になりがちな指導方法を改め、道としての教えを身につけねばなりません。そこで私は師範の意図されるところは何であったか、特に教育精神とは如何なるものであったか、柔道における精神面の指導とは何であったかを究明するために、本主題にその一部分を求めたのであります。
 師範から直接拝聴することもできない今日、師範の教えられた言葉が文筆になり、更に記録として残されているものと云えば揮毫があります。
 昭和五十年に警察大学校に在学していた頃に、当時、醍醐敏郎先生のご指導の下に師範の揮毫の語句を収録して、「嘉納治五郎の研究・揮毫の語句の分析・考察」というテーマで論文を作成していたので、この「精力善用・自他共栄」だけについてもっと深く研究してみようと思ったのです。
 嘉納師範は倫理、道徳の研究もしておられたと伺っており、講道館が下谷・北稲荷町に永昌寺(浄土宗)を発祥の場所として開かれたことにより、当時、師範は論理の研究を仏教に求められたものと推察しました。住職の朝舜法和尚と懇意にされ、仏教と哲学と倫理について、歓談されている姿が浮かんできたのであります。(当時、師範は二十三歳、朝舜法和尚は四十六歳)
もちろん、「精力善用」「自他共栄」が、柔道の技の理合いに適っていることも指摘できますが、ここでは主に精神的価値、人生百般のことに応用すれば社会生活に不都合なことを改善できるという観点から考えてみました。

〔註1〕
 「稽古」というと、今は(習う、学ぶ)という意味で使われていますが、もともとは「古事記」の序文に見える言葉です。「古事記」は、元明天皇の勅を受けて太安万侶が、史料を整理して編纂した我が国最古の歴史書です。その序文に「古を稽えて以て風猷を既に廃れたるに縄し、今を照らして以て典教を絶えんと欲するに補わずということなし」とあります。大変難しい言葉ですが要するに「昔をよく学んで、既に廃れてしまった風猷、すなわち道徳をもう一度正し、現在の基準とすべく、失われようとしている貴重な文献を補わんために、この古事記を書きあらわすものである」という意味です。「今を照らす」とは、現在の指針とするということです。また、道元禅師は、「稽古のおろそかなるなり、慕古いたらざるなり」と言っています。慕古は昔を慕うということです。道元は、昔のことを慕う心がおろそかだから、学問がおろそかになるのだというのです。
 講道館でも、各道場でも、「寒稽古・暑中(土用)稽古」と銘打って冬季と夏季の最も寒い時期と暑い時期に、精神の鍛錬として稽古をしています。警察でも剣道と柔道の「寒稽古・暑中(土用)稽古」を実施してきておりましたが、何処から指令がでたのか全国の警察では今は「冬期集中訓練・夏期集中訓練」と称して訓練をしております。三味線や踊りの「おけいこごと」の弱々しいイメージが強いのか、「稽古」という言葉が使われなくなってきております。「おけいこ」すなわち「稽古」なのです。古いもの・日本の文化に対するロマンも無くなってきております。「おけいこ」ではなく「稽古」であるからこそ、皆寒くても、暑くても自ら修行を続けるのです。「冬期集中訓練・夏期集中訓練」では上から命令でやらされているというイメージが強いのです。ここにも柔道ルネッサンス(復活)を唱えたいと思います。

〔註2〕
 嘉納師範の雅号には「甲南」・「進乎斎」・「帰一斎」がありますが、
 「甲南」は若い頃に用いられたもので、六甲山の南の意味で嘉納師範の生誕された土地にちなんでつけられたものであると聞いております。(摂津の国、御影村・今の兵庫県御影町)
「進乎斎」は六十歳ごろから用いられた号であり、説には「進乎技矣」という言葉があり、これはある君主が臣下の技量に感服して、「善いかな、けだしここに至るか」と褒めるとその男は即座に「臣の好むところのものは道なり、技より進めり」と答えたというところからきているものと云われております。
 「帰一斎」は七十歳ごろから用いられているものでありますが、この出典は不明とされております。茶の湯では、利休百首に、「稽古とは一より習い十を知り、十より帰るもとのその一」とあります。一から学び始めて十まで行ったら、それで完成ではなく、また一まで戻ってくる。そして、初心に帰ってあらためて一から学びなおすのです。七十歳を過ぎれば晩年ですので、ここらあたりで、また原点及び修行し始めのころの思いに帰ろうと考えられ「帰一斎」とされたのではないでしょうか。(他の説も有りますが敢えて自分の説を書きました。)

2.『?』(?は正字、徳は略字)

 剣道は剣をもつから剣道、弓道は弓を持つから弓道、馬術は馬に乗るから馬術等、それぞれ使用する武器等によりその名がついております。
柔道はなぜ「柔」がついているのか、競技者も指導者もそのことを顧みることなく修行していることが多いと思います。
 「柔(やわら)」とか「柔術」という名称は江戸時代草創期、大陸から儒学・儒教が伝わってきて、その中で中国古典の兵法書「三略」の次の文中から採択されているといわれております。「軍識日 柔能制剛 弱能制剛 柔?也剛賊也 弱人助所 強怨攻所」この中で「柔?也」とあります。?とは「十四を一心に行ずる」と字義を解釈することもできます。つまり十四を一心に修行すれば?が備わる、善行・善道・正義・道義など道を行って体得した立派な人の、立派な行いができるということになります。
 それでは、十四とは何であるか、根本仏教でいう「八正道」と「六波羅蜜」のことをいうのではないだろうかと考えると、「八正道」の「八」と「六波羅蜜」の「六」をたせば十四になります。
 この「八正道」が「精力善用」であり、「六波羅蜜」が「自他共栄」のことを云っているのではないかと考えたところであります。嘉納師範は次の文章にも「?」の語を使用しておられます。「教育之事 天下莫偉焉 一人之?教 廣加萬人 一世之化育 遠及百世」これらは師範の教育理念に一貫性があるものと思料されます。

3.「八正道」=「精力善用」

 「八正道」とは「正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定」です。
 「正見」というのは自分中心のものの見方を捨てて、正しい公平な見方に従うことです。  「正思」とは、ものの考え方を自己本位に偏らせることなく、大きい立場から、正しくものを考えることです。「貪欲(自分だけが徳をしたいとむさぼる心)」とか、「瞋恚(自分の意に満たないために怒る心)」とか、「邪心(すべて自分の我をとおすよこしまな心)」というような「意の三悪」をすててすべてを正しく大きな心で考えることです。
 「正語」とは、「妄語(うそ)」や、「両舌(二枚舌)」や、「悪口(わるくち)や、「綺語(口から出まかせのいいかげんな言葉)」のような「口の四悪」のない、正しいものの言い方をすることです。
 「正行」とは、日常の行動が戒めにかなった、正しいものでなければならないということです。なかんずく「殺生(意味もなく動植物の命を断つ)」、「偸盗(盗み)」、「邪淫(色情のあやまり)」という「身の三悪」のない清らかな日常でなければなりません。
 「正命」とは、衣食住その他の生活必需品を正しく求めるということです。人に迷惑になるような仕事や、世の中のためにならないような職業などによって生活の糧を得るのではなく、正しい仕事やひとのためになる職業による正当な収入で暮らしを立てなさいということです。
 「正精進」というのは、「意の三悪」「口の四悪」「身の三悪」のようなもろもろの悪をなさず、常に正しい行いをして、怠ったり、わき道へそれたりしないということです。
 「正念」とは、正しい心をもって修行せよということです。特に大切なことは自分自身に対してだけでなく、他人へ対しても、また人だけでなくすべてのものに対しても、正しい心を持たなければならないということです。自分だけが正しければよいというのでは、世間から離れた、頑固な、ひとりよがりの人間になります。天地万物に対して、平等に正しい心で対しなければなりません。
 「正定」というのはいつも心が決定して、周囲の変化によってグラグラ動かないこと、すなわち終始一貫して行い続けることです。
 まとめて云えば「八正道」は日常生活を正しくする自行の道、すなわち、「精力善用」なのです。

4.「六波羅蜜」=「自他共栄」

 次に「六波羅蜜」というのは他を助ける修行をする者の行いについて六つの標準を示したもので、すなわち「布施」・「持戒」・「忍辱」・「精進」・「禅定」・「智慧」の六つです。
 先ず第一は「布施」ですが、これには「財施」と「法施」と「身施」があります。「財施」というのは金銭や物質を他人に施すこと。「法施」というのは人に正しくものごとを教えること。「身施」というのは、自分の骨折りによって他人の心配や苦労を少なくしてやること。この三つのうちひとつもできないということはありません。このうちのどれでもいいのですから、自分にできる「布施」を実行して、人の役に立つことが肝心です。とのかく「布施」ということが人を助けることの第一条件とされているのはたいへん意味深いことです。

 第二の「持戒」これは「戒めによって、自分の心の迷いを去り、正しい生活をして自分自身を完成していかなければ、ほんとうに人を救うことはできない」ということです。人のためにつくすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人につくせるようになる、この二つは無限に循環していくものなのです。
 第三は「忍辱」、これは現代の人間には特に必要なことだと思います。「忍辱」というのはつまり「寛容」ということです。それも人に対してだけでなく、だんだん修行を積んでいくと天地のあらゆるものに対して腹をたてたり、恨んだりしないようになります。私達は、ややもすれば、雨が降ったら降ったで、うっとおしいと文句を言い、天気が続けば、今度は埃が立つといって不平を言います。雨がふったら「いい雨だ」と感謝し、天気になれば「太陽の光はいいな」と賛美できるようになります。つまり周囲の変化に心がとらわれぬようになるのです。

 第四の「精進」ですが、この「精」という言葉は「まじりけのない」という意味です。一生懸命に学んだり修行したりしても、頭の中や行いにまじりけがあっては、精進とは云えないのです。余計なつまらないことはうち捨てて、大切な目標に向かってただ一筋にすすんでいくことこそ、精進なのです。しかし、そうして一心にやっていても、良い結果が出てこなかったり、かえって逆の現象が現れたり、あるいはその修行に対して、外部から水をさすようなことがらが起こってくることがあります。けれど、そういうものは、大海の表面にたったさざなみのようなもので、やがて風がやめばなくなってしまう幻に過ぎません。こうと心に決めたら、退くことなくひたむきに進ことです。それこそ本当の「精進」なのです。

 第五は「禅定」です。「禅」とは「静かな心」「不動の心」という意味です。「定」というのは心が落ち着いて動揺しない状態です。ただ、一生懸命に精進するばかりでない、静かな落ち着いた心で世の中のことを見て、そして考えることが大切なのです。そうするとものごとの真実の姿が見えてきます。

 第六は「智慧」です。真実の姿が見えてくるとそれに対する正しい方法もわかってくるのです。その正しいものの見方、ものごとの本当の姿を見分ける力が「智慧」です。この「智慧」がなければ、人を救うことはできません。たとえば道端に青い顔をして横たわっている病人のような人がいたとします。その人をひと目見て、かわいそうだと思い、前後の考えもなく金を恵んでやったとします。ところがその人が麻薬中毒患者だったら、その金で麻薬を買い入れて注射をうつでしょう。そのために、救うことのできない重症患者になってしまうかもしれません。もしこの人に金を与えるかわりに、しかるべき施設に入れるようにしてあげたら、更正したかもしれないのです。「布施」したつもりでも、その方法を誤るとこんなことになってしまいます。このように、我々が人のために役立つとか、人を救うという立派な行いをするにも、真実の「智慧」をもってしなければ有効な働きをしないどころか、かえって逆の結果にもなりかねません。
 六波羅蜜はすべて他を救うことが前提となっており利他行です。すなわち「自他共栄」なのです。

5.結
 柔道ルネッサンス(復活)として「精力善用」「自他共栄」を掲げ、柔道の啓蒙と普及に責任を持つ柔道の修行者は、創始者嘉納治五郎師範の意に背くことなく、日々に自覚と認識をもって修行していかなければならないと考えます。
 目先の勝負にこだわれば、ああでもない、こうでもない、という議論が先行します。競技の頂点にたつ者はひと握りの選手であって、底辺で修行する者の指導に誤りのない認識が必要です。
 指導者は勝つためにその能力のない者に対しても無理な稽古を強いることもあります。その者の将来を犠牲にしたり、台無しにしてはいけません。勝負にこだわることも修行のうち大切なことですが、それは修行の過程であって目標であってはならないはずです。
 師範も遺訓の中で、「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防禦の練習によって身体精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を体得する事である。そうして是に由って己を完成し(精力善用)、世を補益(自他共栄)するが、柔道修行の究竟の目的である。」と教えておられます。
 今や、高校生をはじめ柔道人口が減ってきております。日本人総柔道修行者とはいかなくても、やはり柔道は日本の文化です。多くの人が柔道の修行者であったり、応援者であって欲しいと思うのです。
 真実の柔道を普及・啓蒙させるために柔道に哲学を持たなければならないと思います。進歩・発展するときには意見の食い違いもありますが、根本柔道においては、各々が銘々に合意もなく勝手に修行することがあってはならないと思うのです。
 さいわい、ここに柔道ルネッサンス(復活)「精力善用」「自他共栄」の主題のもとに内外共に誤りのない方向に導いていくことが肝要かと思います。
 「精力善用」「自他共栄」について、勝手な解釈を考察したところですが、ご意見・ご批判があったらご指導を賜りますようお願い申し上げます。

(中国地区柔道連盟会長・島根県柔道連盟会長)

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