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今月のことば

2016年5月号

不変と変化

吉岡 剛

 今年の1月、講道館において行われた会議で戦後の柔道界を築き上げた先生方と同席する機会があった。醍醐敏郎、大澤慶己、安部一郎各十段を筆頭に、松下三郎、長谷川博之、関根忍各九段など挙げればきりがないが、一世を風靡した先生方ばかりである。私はその時に戦後の柔道の流れに思いを馳せた。
 嘉納治五郎師範が創設されて柔道は歩みを始めた。嘉納師範は柔道家としてだけでなく、教育者、思想家、政治家という色々な側面を持たれていた。その集大成ともいえるオリンピック日本招致に成功したが、夢が現実となる一歩手前で、時代のうねりに飲み込まれて実現できなかったのは周知の事実である。
 戦後、その時代の方々の熱意のおかげで柔道はまた歩み始めることができ、急速に夢の実現は近づいてきた。そして昭和39(1964)年に東京オリンピックが開催され、日本国中が大いに盛り上がった。私自身はまだ8歳で日本の盛り上がりもあまり分からなかったが、何もかもがオリンピック一色であったことはかすかに覚えている。しかし、柔道界が必死であったことは容易に想像がつく。東京オリンピック軽量級優勝の中谷雄英先生と懇意にして頂いているので、競技者としての厳しさ、大変さ、心の動きは事あるごとにお聞きしている。お話を伺う度に地元開催であることの重さ、熱さ、柔道競技が初めてオリンピックに参加することへの戸惑い、何年にも亘る選手選考の熾烈さ、選ばれし者が味わう世間の期待からくるプレッシャーなど、心の葛藤は私たちの想像以上であろうと考えられる。それに打ち勝っての優勝は頭の下がる思いである。
 東京オリンピック後の柔道は、世界へ新たな形で広がりを見せた。日本の柔道としてではなく、JUDOというスポーツとして広がっていったのである。このことにより各国が日本柔道の模倣ではなく自国のスポーツの考え方、風土に適したJUDOの形を作っていった。無論ルールを踏まえた上での変化である。例えば、当時のソ連ではサンボ、韓国では韓国相撲を取り入れる等である。考え方も日本の柔道の思想を参考にしつつも、各国独自のJUDO思想を作り上げていった。トレーニング法や練習法においても同様のことが行われた。それにより、日本は国際大会でしばしば戸惑うこととなった。例えば、私の経験で当時のソ連の選手に前帯の結び目をおがみ取るような形で取って持ち上げ横捨身へ入る技を掛けられ大変に驚かされた。他にもバックドロップのような裏投、タックルからの双手刈、レスリングの飛行機投に近い肩車など、今までになかった変化に対応することが余儀なくされた。そのために日本の指導者・選手は世界の変化した技、独特の持ち手、トレーニング法などを研究することとなっていった。試合審判規定においても同様である。国際柔道連盟の考え方の主軸が日本から世界に移っていったことで、世界の基準で規定が改正されていった。時間、畳、広さ、柔道衣の色・素材・厚さ・長さ、禁止技、持ち手など挙げればきりがない変化である。世界の競技柔道の大勢が勝利至上主義に走り、ともすればルールの盲点を突くことで正々堂々という言葉が横に追いやられていったのである。しかし、私は現在のルールのもとで絶対的な勝ちを収めてからでなければ日本柔道の考え方へ回帰する要求はできないと考える。
 柔道の根本の考えは不変である。その不変の部分は、嘉納師範の数々の教えに基づいている。それは、柔道家としては、これまであった柔術を研究し、人が人を制するための術理を理論化し、誰にでも分かり易く体系化したことであり、その実践を通して人作りをしていく道を確立したことである。また、教育者としての言葉は人生訓であり時には養生訓でもある。その総てを表した「精力善用・自他共栄」は柔道家のみならず人としての哲学であり人類愛であり、究極の理論である。私たちは出発点でこの教えを学んだ。修行を続けるうちにそれは少しずつではあるが身についていった。柔道の目的の1つである自己の体力的・技術的向上を目指す時、人としての優しさ・強さをも身につけていくこの考え方は不変でなければならない。
 しかし、柔道の表面の形は時代の流れによって変化していく。とするならば、その変化をより良い形にしていかなければならない。嘉納師範の考え方を理解しているであろう私たちが、変化の場において積極的に意見し、絶対的価値観が揺らぐことのないようにしていくことが必要である。現在の指導者はそのための努力を惜しまず、これから続く柔道を愛してくれる後輩たちのため、このことを肝に銘じて活動しなければならない。
 間もなくリオデジャネイロでのオリンピック・パラリンピックが始まろうとしている。日本チームの活躍を祈るばかりである。その後、2020年東京においてオリンピック・パラリンピックが開催される。日本中がそのことに向かい進もうとしている。スポーツは「する人」「観る人」「支える人」で成り立っている。選手たちは心の葛藤に打ち勝ち目標を達成して頂きたい。日本中の人たちには、柔道が素晴らしいものであると理解してもらい、心から応援して頂ければ幸いである。私たち支える者は選手たちが全力を出せるように、観る人が気持ちよく応援できるように精一杯の力を注ぎたいと考えている。
 2020年は近い。私たち支える者はできることから始めなければならない。
(山口県柔道協会会長)

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