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今月のことば

2006年09月

柔道による人間形成

須貝 忠吉

 廿一世紀に於ける「生きる力」とは、「肚、腰」を据えることである。人間の身体にはどれ一つとっても大切でないものはないが、殊に大切な臓器を包み込む「肚」と、人体を支える「腰」とは選択、決断して実行に移行する重要な部位である。「肚を決める」「腰を据える」とは、敢然として物事を成す態様が示されている。「腑抜け」「腰抜け」は殊に男子にとっては屈辱的な罵詈雑言となる。「肚ができている」「腰が据っている」「地に足がついている」とは、中心感覚としての身体感覚が身についていることで自己の確立である。人は一人では生きてゆけない。自分を取り巻く他者、組織、世間の中に生きるには、その中での人間関係の距離感覚が重要である。自分自身の中心感覚と他者への関心を持つ距離感覚をしっかり身につけることが「生きる力」である。

 「形」に嵌った人と言えば、堅苦しい頑固な融通の利かない人間像を想い出す。これは悪い印象であるが、他方に於いて誘惑に負けない一筋に凝り固まった信念の人にも通ずるから人間は面白い。日本文化は、気候、風土の影響で形成された。多湿な気温からくる住居は風通しをよくし、畳による防湿の生活習慣からタタミ文化となる。欧米の立居の反対に坐居生活も畳による起居振舞となる。畳の坐居文化として芸道で代表的なのは、茶道であろう。茶道の裏千家の宗家千宗室は、日本文化は「形」の文化であると言う。茶道はその典型といい得る。「形」の文化は日本ならではの畳の上のタタミ文化と言えるかもしれない。

お茶の点前作法の「形」の稽古を一生懸命繰り返し、「型」の中にひたすら自分自身を没入して、心血をそそぐことによって始めて「型」が「形」になるのである。「靈(ち)は水靈(みずち)」などのように使われるが乳(ち)血(ち)と同じく生命のエネルギーである。日本の伝統文化は「型」から入るが「型」を習っているうちに「型」のもつ合理性や連続性に靈(ち)血(ち)が入って形(かたち)になるのである(草柳大藏)。「型」は誰がやっても鋳物の「型」である。然し血や靈の入った「型」は「形」になる。「型」は個性そのものにもなり人間が形成される。

 廿一世紀のIT革命時代は、自然の中での直接的な体験が減少し、假想現実と混同され易い状況の進展する環境で自己の存在感と稀薄化と、他者とのコミュニケーションの困難さが二大問題となるであろうが、これは中心感覚と距離感覚の二つの身体感覚によるものである。足を地につけてスックと自然体に立つ「肚を決め」「腰を据え」「肩の力を抜いて背を伸ばす」心構え身構えは、自ら自己中心感覚を意識する。対峙した相手の距離、空間、位置を目測して時間を計り、間合いを取って距離感覚を保つ、これが武道の相対動作である。

 現実は常に流動する、その急激な時代の流れの中で自己を失い勝ちになる。そうした流され易い流行の中で、基本となる「形」は自分自身の位置、立場、責務を確認させることによって自己中心感覚を確立させ、他者との距離感覚も自ら手にすることができるのである。

 柔術の「形」は、戦国時代の戦いの仕様、技術を江戸時代の平和な世に、流派による道場指導の必要上作成したものを、講道館柔道の「形」として取捨、選択、創造して集大成したものであり、模範的な技、応用の利く技、存続維持してゆける技を骨子にしたものと云われている。我が国の武道には夫々独自の「形」が存在するが、柔道の「形」ほど年齢、性別、体力、精度、天地自然の理、舞踊の要素等に即応した多岐に亘る異色なものはない。 理想を追い基本に勤しむ若い力のみなぎる「投の形」、多用な生活様式に準ずる柔軟な体力を培う「柔の形」、永い人生の辛酸をなめ尽して「肚を決め」「腰を据え」た古武士の風格をにじみ出す「古式の形」と集大成される。

 「形」の表現の中で嘉納師範の「形は文法で乱取は作文である」との教えは、柔道人に膾炙されている。文法は規定通りで堅苦しいし覚え難い、乱取は作文で下手で文法を知らなくても書きなぐれるし、下手だと投げられ放しと同様であるから面白い。文法を知らないと正しい文は生まれないし将来性がないのも、「形」を身につけないと正しい柔道が生まれないのと同様である。我が柔道の「形」については、柔術時代の稽古は先ず「形」か始まり「形」が相当以上上達したところで、実戦に近い応用稽古として「形残り」あるいは「乱れ」「乱捕」などの語で呼ばれたいわゆる「乱取」に入った。然し流派によっては「形」のみ指導するものもあったとのことである。

 講道館創立の当初は門人も少なく両者併立して稽古され、相互に補完し合って技術の向上に役立ったものであるが、その後門人の急激な増加により道場の広さの関係上、別建ての稽古に移行して興味があって試合に直接役立つ乱取稽古が主となってしまう。当時強いと云われた人々は「形」の修練をする暇もない位乱取稽古に専念して数稽古にかけたとのことであり、「弱い奴に限って「形」にうつつを抜かしている」と悪口をいう傾向があったとのことである。

 形は規定通り実施しなければならないので難しい。むしろ乱取や試合は、下手は下手なりに、弱けりゃ弱いなりに投げられたり負ければ事足れり、相手に迷惑はかからない。然し「形」は下手だと相手が困るし評価も下落し「自他共栄」にはならない。相手の実力相当以上に努力を傾注する責務がある。正確に規定に従う遵法精神は、自己判断力の養成に力ありその半面、個性の伸張を阻害するむきありと思われるが、柔道は「形」から入って乱取、試合へと奥行きが深く道が遠いので杞憂に過ぎないものである。

 人の生き様は千差万別である。その表現は生活万般の中で、表情、言語、文章、行動等の生活態様であるが、大事なことは「格」があるかどうかその人の品位、品格、風格である。人間としての値打ちが行動などからくる姿、形が正しくにじみ出るその人のよって来る雰囲気というものが必ずあるようである。「形」そのものの仕様、順序は確定しているものの演技する人によって多種多様な雰囲気が現出されるのが不思議な感に打たれる。演技者の技術そのものと、人生の風雪を経て粋も辛さも味わった円熟の生き方が醸し出されるその人ならではの人間性によって、存在感のある自らなる「格」が表現されることになるのであろう。

 明治二七年、小石川下富坂道場開設の落成式の嘉納師範演技の「古式の形」を評した歴史上の人物勝海舟の詩に「無心而入自然之妙、無為而窮変化之神」とある。これこそ正に「形道に入る」品位、風格を示す絶讃の言葉である。

((社)北海道柔道連盟会長)

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