今月のことば
2009年06月
足元を固めて危機に備える
藤 田 弘 明
世界は今、大きな不安に包まれている。米国に端を発した金融危機による世界同時不況、そして新型インフルエンザの発生。急速に広がる黒雲が、美しい新緑に弾むはずの心に影を落としている。柔道界に目を向けても心は晴れない。欧州での国際大会、全日本選抜柔道体重別選手権大会、全日本女子柔道選手権大会、全日本柔道選手権大会と、今夏にオランダのロッテルダムで開かれる世界柔道選手権の代表選考を兼ねた大会はすべて終了し、男女計14人の代表が決定した。北京五輪から8カ月以上が経過。ロンドン五輪、さらに東京が招致を目指している2016年五輪での開花を期待させる新戦力の芽吹きを楽しみにしていたが、若い力の台頭にはまだまだ時間がかかる、という印象を受けた。大会結果だけでなく、選手たちの戦いぶりから私と同じような感想を持たれた方も多かったのではなかろうか。 危機の時代に不安をあおるのは簡単だ。大切なのは現実を見つめた上で足元を固めること。それは柔道界においても変わらない。 日本柔道史上最多の8個の金メダルで世界を魅了したアテネ五輪。あの快挙の裏には金メダル1個にとどまったソウル五輪の惨敗を踏まえ、日本柔道界が一体となって取り組んだ強化があった。「一本を取れる強力な技を身に付け、最後まで攻め通す気力とスタミナを養う」を合言葉に、長期的かつ計画的に強化を図ったのは、皆様もご存じの通り。大舞台で奮闘した選手が讃えられるのはもちろんだが、選手を支えた多くの指導者や関係者の汗と涙の上に金メダルの笑顔は咲いたのである。 日々向上している世界の競技レベルに対して、残念ながら日本の子供たちの身体能力は低下傾向にある。経済的に豊かになったことで精神的な強さや忍耐を身に付ける機会が減り、少子化も進む。このような状況下で競技力向上を図る方法として、ジュニア期からトップレベルに至るまで一貫した指導理念や指導方法に基づき、選手を育成し強化する「一貫指導」の重要性が増している。選手個々の特性や発達段階をきちんと把握した上で最適なトレーニングをさせて選手の資質や能力を最大限に引き出してあげるのである。子供たちは全国各地にいる。その中から才能を発掘、育成、強化し、世界と戦う。中央集権から地方分権への流れが加速する政治と同じように、柔道界でも地域が果すべき役割は大きい。底辺の拡大がなければ発展はない、その思いを強くしている。 大勢で、しかも屋外で一緒に遊ぶ子供たちの姿を見かけなくなって久しい。思いやりや協調性、公正さ、感受性といった競技者というより人間が成長するために必要なものはかつて、日常の遊びを通して育まれてきた。その貴重な場が減ってしまった現状は、決して子供たちが望んだものではないことを肝に銘じておかなければならない。背景には時代の流れに伴う社会情勢や環境の変化があり、我々大人がもたらした、と言うこともできよう。大人の責任として、子供たちの能力を見極め、開花を手伝ってあげよう。花開くまでには、身体能力の低下に起因するけがの増加という問題もある。けがをしないために栄養面も含めた食事の在り方、畳を離れてのトレーニングなどを教えることが必要だ。競技生活をできるだけ長くし、さらに引退後はスポーツを楽しみながら社会人として豊かな人生を送ることのできる環境も整備していかなければならない。過保護と言われるかもしれないが、これは時代の要請でもある。 福岡県柔道協会は、学校と学年の垣根を越えたジュニア期の一貫指導に取り組んでいる。柔道の競技力向上とともに青少年の健全育成を目標に設立した「福岡柔道クラブ」では多くの小中学生が汗を流し、己を磨いている。シニアの主要な大会に出場する"卒業生"も出てきており、子供たちのつぶらな瞳にはもちろん、頂点が映っている。しかし全員がチャンピオンになれるわけではない。競技だけでなく社会の国際化にも対応できるトップアスリートの育成。福岡から九州へ、さらには全国に広がりを見せているこの一貫指導の根底には、人間教育がある。今こそ、嘉納治五郎師範が説かれた「精力善用 自他共栄」の教えを生かすときだ。柔道で勝つことだけでなく、将来、各分野で社会的使命を全うできる人材を育てなければ日本の未来はないと断言できる。競技者として、さらに人間としてバランスのある能力を備えた人材が求められている。重要なのは柔道を通して人としての魅力を磨くことだと考える。 「将来有望な子供は、野球やサッカーなどに流れてしまって柔道を見向きもしない」という嘆きをよく耳にする。絶対数が減っているとはいえ身体能力の高い子供は確実に存在する。日本人が五輪で金メダルを狙える柔道は4年に1度、必ず脚光を浴び、世界選手権も2年に1度から毎年開催となる。他の競技と比べ、子供たちの目を引きつけるチャンスが多いのは間違いない。春秋に富み、素質を持った子供、さらには親の関心を集めるためにも、有為な人材を輩出し続けることが重要になってこよう。それは、柔道界の底辺拡大につながると確信する。 福岡県は日本オリンピック委員会や国立スポーツ科学センターと連携して「タレント発掘事業」に取り組んでいる。スポーツに対する素質を感じさせる小中学生を発掘し、一貫指導で競技能力向上を目指すものだ。幼少期から英才教育を施すのは珍しいことではない。ユニークなのは競技を限定せずに何にでも挑戦させ、適性競技を見極めて練習を重ねる点にある。こちらも全国的な広がりを見せており、柔道へと視線を向けてもらわなければいけない。 柔道を、より魅力ある競技にするために、今やれることをやろう。道場や大会が開かれている会場だけが指導の場ではない。学校でも、街角でも構わない。子供たちに柔道と触れたり、楽しさが伝わったりする場を設けていただくだけで、大きな効果が生まれるに違いない。世界選手権の代表になった選手たちにも大切な役割がある。世界の大舞台で日本柔道の神髄を示し、金メダルを獲得することで将来の日本代表となりうる逸材を柔道へといざなうことだ。現在だけでなく、柔道界の未来も背負っているという自覚を胸に戦ってもらいたい。
(全日本柔道連盟副会長・九州柔道協会会長)
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