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今月のことば

2018年11月号

柔道事故とガバナンス

野瀬清喜


 平成15(2003)年、福島県須賀川市の中学校で柔道部の練習中、意識不明となった当時1年生の車谷侑子さん(27)が、9月12日、急性気管支肺炎で亡くなられた。ベッドの周りには4万羽の千羽鶴が飾られていたという。侑子さんは事故にあった1ヵ月ほど前に頭部打撲をし、医師から「急性硬膜下血腫」との診断を受けていた。しかし、学校側は侑子さんの安全に特別な配慮を払わないまま、漫然と通常の稽古に復帰させていたと聞く。
 家族は15年間にわたって介護を続けたが、「もう1度、話をしたかった」という願いはかなわなかった。朝、元気に「行ってきます」と言って家を出た子どもと2度と声を交わすことができない。遺族の無念はいかばかりかと推察する。このような悲惨な重大事故は柔道界をあげて根絶しなければならない。
 重大事故総合対策委員長を務めた平成28(2016)年からの2年間にも死亡事故1件を含む7例の高校生・中学生の重大事故、それに準ずる事故の報告があった。この多くが日常生活に復帰していることが唯一の救いである。

 あるスポーツで高校2年生の時に頸椎損傷を負った大学院生から「私は事故で体の機能を失っただけでなく、恩師も友人も大好きなスポーツも全て失いました」と聞いたことがある。「事実の隠蔽」など絶対にあってはならない。事故にあったご家族は、介護の疲れや将来に対する不安から、自分たちと同じつらい体験を誰にもして欲しくないと願うようになる。受け入れがたい現実に対する「怒り」や「悲しみ」から、「真実の究明」と「再発防止策」を要望する。当事者の苦しみを理解し、寄り添う姿勢での事故原因の究明と「透明性」のある「説明責任」が事故根絶の第一歩となる。
 このように事故や不祥事が起こった時の「コンプライアンス」とそれを未然に防ぐ「ガバナンス」が組織にはなくてはならない。これらの機構は事故のみでなく「パワハラ」や「暴力」など様々な問題も統治していく。最近、スポーツ界の不祥事や暴力問題の報道が後を絶たない。柔道事故とも共通項のある、これらの背景について、自戒の念を込めて問題の特徴を何点かあげてみたい。

 第1は、執行部の長期政権化による感覚のズレである。昭和世代の根性主義的な指導や組織運営。欧米のフェアプレー、アスリート第一主義、子どもたちの人権尊重などの新しい価値観に目を向けないリーダー。パワハラに関しては時代と共に定義が変わるが、暴力が「昔は許された」などということはない。昔も今も犯罪である。多くの優秀なスポーツ指導者や社会のトップで活躍する柔道家は暴力のない世界で育っている。
 第2は、権力の集中である。一部の人間に権力が集中し、気づかないうちに独断で物事を進めていく。組織として風通しが悪くなり、「透明性」や「説明責任」もないまま、人事やルールまでもが変更されていく。まさしく組織のガバナンスの問題である。昔は手弁当で私財をつぎ込む活動であったとしても、2020東京オリ・パラを控え、多くの公的資金が配分されている。このような好環境下で気づいたらイエスマンのみとならない組織運営が必要である。
 第3は、スポーツ関係者の多くが文書や本を読まないことである。自身が受けた経験主義的な指導を何十年も繰り返し、合理的な指導法やスポーツ科学に目を向けようとしない。柔道に関しても全柔連では「大外刈は指導に細心の注意を要する技で、3ヵ月は立位からは投げない」という文書を出しているが、十分に浸透していない。全柔連や講道館のホームページに定期的に目を通したり、その機関誌を読んだりする努力が欠けているのではないか。
 第4は、勝利至上の偏重である。「勝てば和が保てる」とプロ野球昭和の名将が言った。スポーツ連盟自体が勝つことに重きを置きすぎていないか。柔道についても考えたい。ここ数年、柔道人口減少に対して競技力向上ではない「もう一つの柔道」がないか模索してきた。しかし、今は物事には「光と陰」、「表と裏」の部分があると思っている。過去最高17個のメダルを獲得したバクー世界選手権やそこでの審判、大会運営などは、まさに光の当たる表の部分である。それに比べ、重大事故・教育普及・登録・広報などは陰の部分かもしれない。しかし、車は両輪があって初めて進むものだと信じたい。この地道な陰の分野を担う人たちの努力を正しく評価し認める活動も推進しなければならない。
 第5は、日本人の価値観の変容である。昨今は地位、権力、金、物が最も価値のあるものとされている。日本人の美徳であった「卑怯を恨む心」や「惻隠の情」などが薄れてきている。観客席で応援する際の席取り、短パンTシャツ・サンダルでの観戦、対戦相手や審判員を誹謗中傷するような言動など改革すべきことは多々ある。礼法や服装、立ち居振る舞いと感謝の心は、指導者や保護者が子どもたちに範を示して欲しい。

 国際柔道連盟(IJF)は、白の柔道衣の尊重(シード選手や表彰台は白道衣)やメダルのかかった試合でのコーチの正装など柔道の品格を高める改革を行ってきた。その一方でプロ化、商業化を推進している。国際大会の回数は多くなり、世界選手権もオリンピックなみの8日間という長期間となった。これらの大会には多くの費用がかかり、多くのスポンサーも必要となる。テレビ映りを良くするには、誰が見ても分かる勝敗の分かりやすさと躍動感のある試合内容が必要となる。日本文化の真髄である「静から動」の世界は失われつつある。しかし、嘉納治五郎師範が創始した柔道の源流に遡り、我が国固有の伝統文化としての柔道を200の国と地域に奨める活動が今こそ必要である。

 おわりに、冒頭で触れた侑子さんのお通夜が行われた9月16日、知的障がいのある柔道修行者のための第1回全日本ID選手権大会が開催された。当日、参集した5歳から50歳近い柔道家たちは、交流練習会で思い切りの笑顔で汗を流した。翌日の大会では後ろ襟を持たないルールでしっかりと組み合う柔道が展開され、参加者全員が表彰台に立った。MIND活動の新しい課題である「柔道For?All」は、今、始まったばかりである。
      (全日本柔道連盟常務理事 教育普及・MIND委員会委員長)

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