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今月のことば

2018年5月号

勝海舟の教え
 ― 事をなしつつ学問すべき ―

真田 久


 4月11日、国際オリンピック委員会(IOC)本部を訪れ、トーマスバッハ会長にお会いした。会長室には、2016年に筑波大学が贈った名誉博士の学位記とともに、嘉納治五郎師範が三船久蔵十段と稽古している様子を描いた盾が飾られていた。バッハ会長は、東京2020大会に向けて、関係者が被災地の復興にいろいろと関わっていることに深い関心を示された。オリンピック・パラリンピックが社会に対して何ができるのか、それを考えていくことが重要である、とバッハ会長は常々発信されている。

 日本人初のIOC委員であった嘉納師範は、1923年9月に起きた関東大震災の直後、このような時だからこそ、日本が震災に負けていないという姿を世界に示すべきだ、として1924年のパリオリンピックへ選手団の派遣を決定する。そして「精力善用・自他共栄」の考えを個人においても社会においても基盤とすべきであると主張した。師範がたどり着いた柔道の理念「精力善用・自他共栄」、これは自身の変革とともに、現実社会に柔道やスポーツがどのように関われるのか、ということを明確に示したものであり、裏を返せば、教育や学問も現実社会との関わりなくしてはその発展はあり得ないことを示している。この師範の発想は、自身の修養によるところではあるが、あえて師範に影響を与えた人物を挙げるとすれば、勝海舟であろう。
 「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を窮む」
 これは勝海舟(1823〜1899年)が嘉納師範に寄贈した書で、講道館に掲げられている。嘉納師範は1894(明治27)年、講道館を上二番町から小石川区下富坂町18番地に移し、そこにそれまでよりはるかに広い107畳敷きの道場を新築した。5月20日、講道館大道場の落成式に来賓として招かれた勝海舟が、師範の演じた形を見て、感嘆してしたためたのがこの書である。師範が演じた柔道の形は、無心で自然であり、それ自体美しく、またその技の変化する様は神業の極みである、との意味である。
 師範の父、嘉納治郎作は師範が6歳の時から、漢学を勉強させた。1870年に母親が他界すると、師範を東京に連れて行き、漢学のみならず、英語(洋学)の勉強もさせたのであった。師範が幼少期を過ごした1860年代の日本は、鎖国していた武士の時代から、開国する新しい明治の時代に移り変わる激動の時代であった。師範が生まれる7年前の1853年にアメリカのペリー提督が4隻の黒船で浦賀(三浦半島)に来航して開国を要求する。翌1854年、200年以上続けた鎖国を解いて幕府は開国した。師範が生まれた1860年に、勝海舟、福沢諭吉らが日本初の遣米使節団として咸臨丸で米国に渡り、外国への見聞を広め、交流が始まる。一方、1866年に薩摩藩と長州藩による薩長同盟ができ、1867年に第15代将軍徳川慶喜は、政権を天皇に奉還し、明治政府が誕生する。明治政府と旧幕府軍との戦争(戊辰戦争)が起きて明治政府が勝利すると、江戸を東京と改称した。父・治郎作に連れられて神戸から東京に移った頃、師範は外国から入ってくる物資や文化、技術などを、幼いながら目の当たりにしたに違いない。
 この激動の時代に活躍した英雄が勝海舟である。勝は、黒船来航後に出した海防意見書が幕府に認められ、長崎海軍伝習所に勤務した。米国からの帰国後も、軍艦奉行として神戸海軍操練所を開設するなど、海運関係の重職についた。薩摩藩・長州藩・土佐藩の新政府軍と旧江戸幕府軍との戦争、戊辰戦争の折には、幕府側の勝は西郷隆盛に直談判し、江戸城を無血開城することを決めた。それ以降、勝海舟は明治政府の参議、海軍卿などを歴任した。

 嘉納師範と勝海舟との出会いは、父・治郎作が大阪で幕府の海上輸送の仕事をしていた関係で、勝海舟との交流があったことがきっかけである。1863年に勝海舟が神戸や西宮での砲台建設を命じられた際、治郎作はそれを手助けしている。治郎作は、1867年に兵庫開港が決まると、外国との貿易のため、日本初の商社を設立するなど進歩的な人物であった。明治維新後も治郎作は政府に起用されて、造船、皇居造営などに功績を残している。父を通して勝海舟を知った師範は、勝との親交を深めたのであった。
 勝海舟が師範に教え諭したエピソードがある。大学を卒業して学習院の教員をしていた頃、師範は勝海舟を訪ねて、しばらく学問に没頭しようと思う、と述べた。柔道を取り入れ、学習院で進歩的な教育を行おうとする師範は、華族の師弟を重んじようとする執行部としばしば対立し、学習院を辞めざるを得ない状況に追い込まれていた。そのような折にしばらくは学問に没頭したいと申し出たのに対し、勝は「学者になろうとするのか、それとも社会で事をなそうとするのか」とたずねた。師範は「後者で、そのためにしばらく学問に集中したい」と答えると、勝は「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ」と忠告した。この言葉は深く師範の心を打ち、以降、師範は実際に必要なものに応じて本を読み、勉強するようになったという。勝海舟の教えは、実践的な知に基づく教育を施していく基盤になったのである。師範は学習院を辞した後、ヨーロッパの教育状況を見て回り、日本の教育方法は十分価値があることを感じて帰国する。その後、第五高等中学校長、高等師範学校長(後に東京高等師範学校長)など長く教育の世界に身を置き、教員養成や体育教育を築いていくのであるが、まさに事をなしつつ学問する、という姿勢を堅持して臨んでなし得たことであった。江戸から明治に移り変わっていく時代に、世界の動きに目を開いていた父の影響もさることながら、開明的で実学的な視点を備えた勝海舟との出会いが、柔道を通しての実践的教育家・嘉納治五郎を作り上げた1つの要因といえる。

 事をなしつつ学問する、これは今日でも重要な示唆を含んでいる。学問や研究も行き着くところ、社会に対して何らかの意味を持たないとその存在意義を失いかねない。現実の世界が直面している課題に取り組むからこそ、学問の進展もある。嘉納師範の生き方はそのことを示している。
                                  (筑波大学教授)

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