今月のことば
2023年9月
柔道は世界の「無形文化遺産」
小川 郷太郎
世界に浸透する柔道仕事がら半世紀あまり世界のあちこちを周りながら、ときには現地の人たちと柔道をしたり見たりしてきた。
もう50年ぐらい前のことだが、貧しい小さなアフリカの国でも柔道をやっている人たちがいた。道場とは言えない粗末な場所で、稽古の始めと終わりに皆が正座して、誰かが日本語で「センセイニレイ」と号令をかけ、しっかりお辞儀をしていた。壁には色褪せてはいたが嘉納師範の写真が飾られていた。他の国では、稽古が終わると着替えをした小さな子どもたちも先生のところに走り寄って行ってお辞儀をして帰っていく姿を見た。初めてフランスに渡った1969年頃、全国に町道場があり老若男女の幅広い年代層が熱心に柔道を学んでいたのに目を見張った。今日、フランスの道場の壁にはしばしば柔道を学ぶことによって体得することのできる礼儀、勇気、友情、自制、誠実、謙虚、名誉、敬意の8つの徳目が貼られている。どの国でも、試合に勝つことより嘉納師範の思想を信奉し、柔道の教育的価値や精神性を意識して柔道に励んでいるようにみられ、このことに強く印象付けられてきた。いまや国際柔道連盟(IJF)に加盟する国や地域の数は200を超え、柔道はまさに普遍性を持つようにもなっている。
爾来柔道は世界の「無形文化遺産」ともいうべき価値を持っていると誇らしく思うようになった。
指導者の海外長期派遣制度の創設を
いうまでもなく日本は柔道の創始国である。強いことも重要だが、それだけで満足しているわけにはいかない。この「無形文化遺産」の質を大事に守り、求められるところに出来るだけこの遺産が広く正しく浸透するよう能動的に対応することが大切だと思う。どんなことができるのだろうか。
例えば、世界から多くの柔道家が憧れの講道館に来て稽古をする。日本の大学での練習に参加するグループもある。日本側は一定程度対応しているが、日本の柔道に対する世界の需要に対しまだ供給力は足りないようだ。供給力不足は長期派遣などで特に著しい。長年にわたり世界の多くの国から日本人指導者の長期派遣を求められているものの、JICAの協力隊員や個人の意思で海外で長期指導をしている僅かの人を除き、ほとんど対応できていない。指導者がいないわけではない。指導者たちはいずれも大学や実業団に所属しているが、所属先は職員を長期に派遣することを望まないからだ。海外での活動に関心を持つ指導者が、自分の職業として一つの国または複数の国で長期に指導できるような制度が必要である。そのためには予算確保が必須である。以前筆者も外務省や国際交流基金へ非公式に相談したが、新たな予算を創設することは難しく、努力したが及ばなかった。従って、講道館、全柔連、学柔連、実業団・民間企業、国際交流基金、外務省、JICAなどの官民が連携協力して、職業としての指導者の長期海外派遣制度を創設することが重要である。数年前に全柔連が数次にわたりアジア諸国に学生ボランティアを派遣したが、経験した学生の中には将来海外での柔道指導を希望する者が出て、卒業後JICAの協力隊員として海外で指導に当たった例もあった。協力隊員OB・OGに限らず企業や大学にも海外指導を希望する者はいるはずである。
世界を概観すると柔道の習熟度はアジアやアフリカではまだ十分なレベルに達してはいない。「自他共栄」の精神で、まずはアジアなどに優先的に指導者を派遣し、アフリカには欧州諸国と相談しながら対応することも考えられる。
昨年、筆者はかつて海外勤務したカンボジアの柔道連盟と同国の首相から、本年5月に行われたカンボジアでの東南アジア競技大会(SEA Games)の柔道競技でこの国の選手がメダルを取れるように強化してほしいと懇請された。そこで濱田初幸先生と中村美里先生に指導をお願いした。濱田先生は昨年10月から、中村先生は本年2月から、カンボジアと日本で毎日選手たちに密着して継続的に密度の濃い強化合宿を推進してくださった。8ヵ月は十分に長い期間ではなかったが、両先生の情熱的指導のお陰で複数個のメダル獲得という大きな成果があり、長期的指導の効果を窺わせるものがあった(拙稿「メダルを獲得したカンボジア柔道の顛末」参照)。
柔道の質的維持や価値の浸透に能動的な役割を
柔道は世界中に浸透し様々な発展や進化がある。かなり頻繁なルールの変更があり、改善点もあるが、これまで有益だった技が使えなくなる例もある。国際試合ではまだ礼儀にもとる選手の言動も散見する。数年前、私はある国際大会の際、役員懇談の場でビゼールIJF会長が日本は積極的に意見を表明してほしいと述べるのを聞いた。世界各国からも柔道に関する様々な問題について日本の考えに強い関心がある。IJFの協議の場では日本の理事も発言しているが、さらに公の場で日本が柔道について発信することが求められている。
日本での柔道への関心は、ともすれば勝つことやメダル獲得に向かいがちだ。強いことは良いことでありこれを否定すべきではないが、柔道という文化遺産を産んだ国としては、その質を維持し、さらに普及させることにも能動的に発信すべきである。柔道の「ブランディング」についての積極的な役割が望まれる。海外の指導方法や考え方などには日本も学ぶところもある。独善的になることなく世界各国の状況を把握して、指導の方法、国際試合での礼節を高めること、試合ルールの内容などについて我が国が国際協調のイニシアチブをとって各国と話し合っていけばよい。そのためには国際場裡で発信できる人材育成も大事であり、IJFやAJUなどへ積極的に人材を派遣して育成することが望ましい。このような努力は我が国による自他共栄の実践でもあると考える。
(前全日本柔道連盟特別顧問(国際渉外担当)・仏柔道誌 『L'Esprit du Judo』 コラムニスト)
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