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今月のことば

2022年9月

医療事故と柔道事故

二村雄次


はじめに
 私は医療事故裁判や刑事裁判での鑑定書や意見書の作成を、裁判所、検察、警察、あるいは原告側や被告側から依頼されて、医師として多くの公的な責任を果してきた。そして、これらの経験を生かして柔道事故に関してもそれなりの意見を発信してきた。その過程で、医療事故と柔道事故との間には共通した問題点が存在することに気付いたので私見を述べる。
事故の発生とマスコミ報道
 診療行為に係る死亡事故症例は年間1300-2000件発生していると推計されている。1999年に都立広尾病院で発生した消毒薬の点滴内投与による死亡事故、横浜市立大学病院での患者取り違い手術事件などの医療事故がマスコミ報道されて、一般市民に衝撃を与えた。これに10年遅れて柔道初心者の中学・高校生が重症頭部外傷により悲惨な結果に陥っていることがテレビ報道された。
裁判事例の実態
 医療事故裁判の記録は、法曹界の媒体を介して閲覧することが出来る。最高裁発表の医事関係訴訟事件統計によれば、医事関係訴訟件数は1999年から増加し、2004年に1110件のピークに達してその後減少し、2020年まで年平均816.4件と変動は少ない。
 一方、2011年の全柔連医科学委員会で私が発表した37頁にわたる報告書では、24件の柔道事故民事裁判のうち、柔道指導者側(被告)の有責例が16例、無責例が8例であった。次に2020年までの重症頭頚部外傷のみを対象とした再調査では、有責例が16例(頭蓋内出血14例、頚髄損傷2例)、無責例が9例(頭蓋内出血6例、頚髄損傷3例)であった。有責の理由としては受身の練習不足、身体的、技術的較差の大きい者同士の対戦、頭部外傷に関する教師の認識不足、練習中に教師が不在など、生徒に対する指導者の安全配慮義務違反が主であった。更に、2010年以降、柔道に係る3件の刑事裁判で指導者が有罪判決を受けた。
事故被害者側の対応
 長引く医療事故裁判が続発したため、公的な事故調査をして再発防止を図り、医療の質と安全性向上を求めて、1991年に「医療事故原告の会」が結成された。1999年の重大な医療過誤の被害者が2008年に「患者の視点で医療安全を考える連絡協議会」を設立して、医療事故被害者の支援のみならず、医療事故を第三者的立場で調査する制度の設立を国に求める活動を続けた。
 一方、2010年に公表された全国の学校で発生した柔道事故による子どもの死亡が27年間で108人(1年間に4人)に達するという衝撃的なニュースはあっという間に世界に広がった。この年に「柔道事故被害者の会」が設立され、柔道事故被害者とその家族の支援と活動を通じて柔道の安全に貢献することを目的として、定期的な研究集会の開催、WEBサイトでの情報提供など、柔道事故の撲滅に向けて積極的な活動が始まった。
私の体験
 重症医療事故の報道が激しくなった頃、全国国立大学病院長会議や日本外科学会理事会でも医療の安全対策が重要議題となった。折りしも2002年8月、名古屋大学病院で手術による死亡事故が発生した。私は病院長として外部有識者による調査委員会を設立し、事故の原因究明と再発防止策の提言を依頼した。速やかに作成された調査報告書を患者家族に説明の後、公表した。医療死亡事故の第三者による調査結果を公表するなどということは、わが国では初めてのことであったので、病院内では情報公開に対して根強い反対があり、あちこちで二村病院長批判が聞かれた。しかし医療事故に対する第三者による外部調査は、所轄の文部科学省から「名古屋大学方式」として推奨され、その後の医療事故に対する法制度設計の際の骨格となった。
 一方、2011年に名古屋市立高校柔道部の1年生部員が重症頭部外傷により死亡するという痛ましい柔道事故が発生した。名古屋市長の依頼を受けた私は、第三者委員会による柔道事故の原因究明と再発防止策の提言をまとめ、これを被害者家族に説明の後、公表した。柔道死亡事故の第三者による外部調査はわが国では勿論世界でも初めてのことであったので、全柔連の内部、医科学委員をはじめ、柔道事故被害者の会で活動している医師からも「やり過ぎだ」「やり方がおかしい」などと直接批判を浴びた。
関係機関の対応
 医療事故が発生した医療機関をサポートする目的で、第三者的立場で調査をして事故原因を究明し、再発防止のための普及・啓発活動をするための医療事故調査等支援団体として一般社団法人日本医療安全調査機構が2010年に設立された。その後医療法が改正され、医療事故の再発防止を目的として「医療に係る予期しない死亡」に対する院内調査結果を医療安全調査機構へ報告することを義務化する医療事故調査制度が2015年から施行された。但し、この制度は医療事故の再発防止を図ろうとする制度であり、事故の責任追及を目的としたものではない。各学術団体でも学術集会で医療安全に関するシンポジウムが開催されるようになった。事故の多い外科系学会では、新しい手術を行うための技術認定制度も発足した。
 一方、2013年に宗岡正二新会長のもとに生まれ変わった全日本柔道連盟には重大事故総合対策委員会が新設され、柔道事故被害者の会から委員が選出された。柔道事故に対する宗岡会長の並々ならぬ決意が感じられた。しかし、現在も全国で発生している柔道事故に対して委員会がどのように介入して事故防止につながっているのかが見えてこないのが現状である。
今後の課題
 医療事故は法整備がされて第三者機関による調査が行われているが、「予期せぬ死亡」かどうかの判断が医療機関の管理者に任されているためか、届け出る事故件数が以前より減少している。この点は制度設計の段階で何度も討議されたことではあるが、医療者側が本気で医療安全を考えているのかどうか問われる問題であり、再検討が必要であろう。
 一方、柔道事故裁判の有責の理由の殆どが「指導者の安全配慮義務違反」であったことは明らかであるので、諸外国を見習った柔道指導者資格認定制度を再構築する必要があろう。また地域での柔道事故の内部調査では、事故被害者側が納得するような調査が行われたのかどうか疑問を呈する事例もあり、全柔連が再調査を試みたこともあった。しかし、調査をする側に外部調査をする際の基本姿勢が守られずに調査不能に陥った事例があったことを真摯に反省し、新たな制度設計に向けた論点を整理する必要があろう。
 世界でも突出した数の柔道事故死亡者が発生している日本は、柔道の宗主国の名誉にかけてこの難問を解決する必要がある。この対策の一歩が、柔道人口の激減に直面している日本柔道界の起死回生の一手になることを願って止まない。
        (愛知県がんセンター名誉総長、名古屋大学柔道部師範、講道館理事)

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