今月のことば
2020年7月
今こそ、武士道精神の涵養を
笹木正信
文部科学省(文科省)では、前回の学習指導要領の改訂で、2012年度から中学校教科体育の中で「武道」の必修化を決めました。その背景には、世界各国の若者たちの意識調査結果で、我が国の中・高校生が他国の若者に比べ、国を愛する心や社会貢献への度合い、或いは両親に対する尊敬の念や将来の夢など、殆どの項目で見劣りするという実態が浮き彫りになったことが1つの大きな要因と伺っています。つまり、自国の歴史や文化並びに伝統を、誇りに思う心や尊重する態度等が希薄であることへの危機感が背景にあったものと推察します。
現在、教科体育で扱われている「武道」は、柔道、剣道、相撲、薙刀及び空手道があります。これらの種目は我が国固有の運動文化であり、文科省はこのいずれかを体育授業の中で体験することによって、我が国の伝統的な考え方を理解し、それに基づく行動の仕方を身に付けさせ、将来の日本を担う若者に対して自国に対する自覚や誇りを育成することを狙いとした訳です。既に必修化から8年経過していますが、授業で武道を経験してきた現在の大学生及び高校生らの意識や言動等に、果して文科省が期待するような望ましい資質の変容が見られたでしょうか。遺憾ながら私は殆ど見られないと感じています。
その原因は複数あると思われますが、私なりに2つの点を指摘したいと思います。第1点は、武道を専門としない体育教師が武道授業を分担している点です。武道は外来スポーツと異なり、ある程度の技術だけで指導出来るものではないと考えます。それなりに教師自ら「修養」の体験を積んで精神面の深い部分を理解していないと、武道指導は表面的なもので終わってしまうでしょう。武道の授業は、単に「education of judo」では無く、飽くまでも技術指導を通して礼儀、挨拶、自律、謙虚さ、労り、思い遣り及び感謝などの心の教育、つまり「education through judo」まで求められているのです。文科省はその点を期待しているのだと思います。2点目は、授業中の事故や怪我の防止を優先し過ぎる点です。確かに、学校現場は多くの生徒が生活する場として健康・安全が担保されるべきことに議論の余地はありません。事故や怪我に対しては細心の注意を払うことは当然のことながら、余りにもナーバスになり過ぎるため、極端な学校では、柔道の授業で座位姿勢からの受身だけでお茶を濁していることもあると聞きます。
事故防止を最優先する余り、受身や打込だけで柔道の授業を終了させられたのでは生徒にとっても不幸なことです。生涯スポーツの基礎を培う意味からも、武道の特性並びに達成感や充実感を味わわせるよう、市町村教育委員会をはじめ、中学校の校長や授業担当者たちは、今一度武道授業の狙いを再確認する必要があると痛感しています。全国的に武道必修化で取り扱われている種目の約7割を柔道が占めている実態から、昨年まで約5年半に亘って全柔連の理事を務めていた時、「武道必修化に関連して全国都道府県教員採用試験で武道を専門とする体育教師を別枠で採用し、武道授業の充実が図れるよう、文科省に申し入れすべきではないか」と理事会の場で発言したことがあります。
近年、急速なグローバル化社会が進展し、経済界を中心に世界各国を行き来する人々が急増しました。日本においてもグローバル化社会が到来して久しい感がありますが、そもそもグローバリゼーションという言葉が本格的に言われ出したのは今からほんの二十数年程前に過ぎません。これについて少し触れますと、1991年、ソビエト連邦からバルト三国が分離独立し、その後ソビエト連邦体制が解体されるや、米ソ二大大国間の冷戦時代に終止符が打たれ、それを契機に自由主義経済(つまり市場原理主義)が急速に世界へ広がりました。それまで「インターナショナル」が主流であった国と国との関係が、堰を切ったように地球を1つの単位とするフラット化が瞬く間に広まりました。そのフラット化したグローバルの波は、直ぐに中等教育学校現場に押し寄せ、結果、グローバル・リーダーとなるべき生徒の育成が求められるようになったのです。
そこで、全国高校長協会普通部会では、グローバル教育の狙いとして次の3項目を掲げました。
1つ目は、異文化を認め、それを受け容れる寛大な心の涵養。2つ目は、我が国と異なる教育観、価値観及び倫理観を持つ人々と共存する心の育成。3つ目は、我が国の歴史や文化について理解を深め、自国に対する帰属意識の涵養です。これらの狙いが示す内容は、互いに多様性を認め、平和や豊かさを共有し、皆仲良く支え合って共生する社会を目指すというもので、「自他共栄」の精神に合致するものであります。
今後一層進展するであろうグローバル化社会において、諸外国の人々と対等に渡り合うためには、私は、日本人としての自覚と誇りを持ちながら、世界の価値観を共有するという2つの視点を大切にする必要があると考えています。それらの資質を備えるには、日本古来から受け継がれて来た武士道精神に基づく文化や価値観を理解させることが不可欠であり、それを具現化する具体的な方策として、武士道精神の淵源とも言える「惻隠の情」、つまり武士道固有の観念に由来する義(正義の道理)・勇(潔い心)・仁(和の心)を弁えさせることが何よりも大切だと思っています。
また、この義・勇・仁の3つの文字にそれぞれ内在する武士道の精神性を核として、今、全柔連が推奨する柔道MINDと関連付けて見たとき、義と勇が重なるところに「I」が存在しており、義と仁が重なるところに「D」が存在し、そして勇と仁の重なるところに「M」と「N」が存在していることが鮮明に見えてきます。
全3巻編成の講道館監修『嘉納治五郎著作集』(五月書房:初版昭和58年10月2日)の第1巻「教育編」で、嘉納師範は「精力善養利用ということは私が古くから唱えていることである」と記しています。この言葉は「修養と事業」の部分で述べられており、師範は敢えて「善用」としない理由について、「善養」とは、智・徳・体の全てを養うこと。更に「利用」とは、それらの力を無駄にせず、有効に働かせることだと述べておられます。この2つの要素をバランス良く融合させることが則ち精力善用だと説いて、次のような例えを用いて話されています。「同一の長さの線をもって作られたる如何なる長方形よりも正方形が大なる面積を有する」と。これこそが「精力最善活用」を最も適切に表現しているのではないかと私は思っています。柔道修行において、競技柔道にばかり没頭するならば、仕舞いには暴力的な人間になるということを強く警告していると思えてなりません。精力善用とは、柔道修行によって身に付けた心を世のため人のために最大限発揮することを言うのだと、教育編を読んで改めて強く感じました。
柔道MINDイメージ図
将来、一層グローバル化社会が進展する時代に、諸外国の人々とコミュニケーションを図りながら、気後れしないで折衝するグローバル人材として活躍するためにも、日本人としてのアイデンティティが不可欠です。因って、スポーツ少年団をはじめ、柔道塾や学校の部活動、或いは中学校教科体育の武道授業等で、指導者たちは今こそ子どもたちに武士道精神の一層の涵養を図る必要があると考えます。
(青森県柔道協会会長)
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