今月のことば
2010年02月
嘉納柔道のコンセプトに立ち返って
笹木正信
現在、国内では小学生から一般まで年間を通して広く数多くの試合が行われているが、これら試合に臨むチームの中で、勝利至上に偏った価値観を持つ一部指導者の下、日頃から貪欲なまでに勝利することのみを目標とした実戦的な稽古に明け暮れている状態を見聞きすることがある。とりわけ小・中学生の児童生徒にそのような行き過ぎた価値観をもって過酷な練習を強要している指導者がいることを遺憾に思う次第である。
ただ、このような状況は指導者の価値観だけが問題なのではなく、元を質(ただ)すと子どもたちの保護者に問題があるケースが見られる場合もある。いずれにしても、小・中学生を相手に勝利至上一辺倒の稽古を強要することは、子供たちの学習意欲の低下を招くばかりか、勝てば官軍的な偏った価値観や他者を排斥して協調性を欠くなど、心身の健全な発達に支障を来すことが容易に予測され、嘉納師範が唱える柔道修行の基本理念(コンセプト)と大きく乖離(かいり)することを猛省しなければならない。また、近年、児童生徒を中心とする柔道愛好者のマナーの悪さが目に余り様々な場面で問題となっており、小・中学生などを対象とする早い段階からの資質向上が叫ばれているが、このような現象の発端と勝利至上に偏った価値観による指導と全く無縁では無いような気がしてならない。幸い、柔道ルネッサンスを提唱しながらマナーアップを図るべく全国規模での地道な活動が、徐々にではあるが功を奏してきていることは救いであるが...。
明治十五年、嘉納治五郎師範は「身体の鍛練」「精神の修養」「勝負の修行」という三大綱目を掲げ、『講道館柔道』を創始してから早や一二八年の星霜を重ねている。嘉納師範は、近年多くの柔道関係者が危惧するように、勝負に拘泥するなど行き過ぎた価値観に基づく柔道指導が大手を振り、知育・徳育が軽んじられる姿を案じ、講道館を創始して僅か三十数年過ぎた頃から、つまり今から約九十年前、既に試合が勝利至上主義的に行われている事態を憂い、次のような苦言を呈している。
「柔道は体育としても知育徳育としても、大いに価値のあるものである。体育としての価値を発揮しようと思うなら、生理、衛生、病理等の学問を基礎として緻密に研究して方法を定めなければならぬ。修行者の年齢、体質、既往の練習等を考慮の中に加えて攻究することが必要である。(中略)ただ無我無心に勝負の練習を繰り返していただけでは、何の得るところもないのである。徳育についても同様で、あらゆる機会を利用して徳性を養い、良習慣を作ることに努力しなければならぬ。今日までそれらのことは注意しないではなかったが、道場においては目の前で勝つとか負けるとかいうことに気を取られているものだから、勝ち負けの間に自然と存する理屈を考えたり、その間に徳性を養うことをつとむることを怠るようになってくる。それ故に、体育にせよ知育徳育にせよ、柔道の修行によって十分の結果を得ようと思うならば、殊更にそのつもりで工夫もし練習もしなければならぬ。近年、学校間の対抗試合などを見る時は、往々柔道の高尚なる目的を忘れて目前に勝つか負けるかということが柔道の目的であるかのように思い違いをしているのではないかと疑われる」と。
明治維新後、多くの近代スポーツは学校現場で普及し、学校対抗の形で発展してきた歴史があることから、我が国スポーツの振興は学校を抜きにしては語れない。また同時に、プロ・アマを問わずスポーツ界で活躍しているトップ・アスリートたちの多くは、高校・大学で競技力を高めてきたことから、勝利至上主義を是正することは容易なことではないが、教育の一環として行われる部活動は、少なくとも中学校を卒業する義務教育段階まで、もっと楽しみ志向を優先しながら徳育面を色濃く出してもよいのではないか。
文部科学省では、新しい中学校学習指導要領において、部活動については「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること」と明記している。言い方を変えるならば、運動部活動は、スポーツに興味と関心を持つ同好者が自主的に運動部を組織し、より高い水準の技能や記録に挑戦するなかでスポーツの楽しさや喜びを味わい、豊かな学校生活を経験する活動であると言える。
ここで敢えて断っておくが、私は「強い日本柔道」を些かも否定するものではない。全柔連では現在も少年競技者育成プログラム等で有望選手の発掘・育成に鋭意努めているが、国家的戦略としてむしろ尚一層英才教育を推し進める必要があると考えている一人である。あくまでもそれを学校における部活動の場で、猫も杓子も部員全員に強要するような指導の在り方に大きな思い違いがあると憂慮しているのである。
「試合」は文字通り試し合うために行うものである。試し合うとは、これまで磨き上げられた技はもとより、己の精神や態度を相手の精神や態度と比較して、もし及ばぬところがあるならば相手に学ぼうという謙虚な心と相手を敬う態度を備えながら、あくまでも試合をする相手は、自分の心や技の熟達の度合いを確認する良き協力者であるということを常に念頭に置かなければならない。私はこの精神こそが「自他共栄」に通じる嘉納柔道のコンセプトであると信じる。
嘉納師範は「柔道の技術は大切である。また、貴重なものである。しかし、もし技術が単独に存在して知徳の修養に伴われていなかったならば、世人は左程柔道家を重んじないであろう。他の修養と離れた技術は、軽業師の技術と比較し得るものであって、特に取り立てて尊重する価値が認められまいと思う」と述べている。
これまで柔道を修行された方々の中で、政界・財界・実業界並びに教育界或いは宗教界など様々な分野において名を為し、後に我が国を代表する立派な人物が数多くおり、二〇〇一年にノーベル化学賞を受賞された野依良治博士もその一人である。
野依氏は、鳩山政権が昨年末、予算見直しのための事業仕分け作業をする中で、科学技術関連事業の廃止又は縮減を打ち出した際、江崎玲於奈氏や利根川進氏ら同じノーベル賞受賞者たちと臨んだ抗議会見の場で語気を強めながら仕分けの手法を猛然と批判したニュースがマスコミに大きく取り上げられたことは記憶に新しいが、野依博士は青春の一時期、全身全霊をもって柔道に生活の全てを捧げた人である。それは文武両道教育で名高い兵庫県灘中学校時代であった。野依氏は大学時代、研究に明け暮れる日々が続く中、強靭な体力と不屈の根性で一言も弱音を吐くこと無く、不眠不休で難しい実験を成し遂げたそうであるが、それは恐らく灘中学時代に柔道で培われた旺盛な気力・体力はもとより、桁外れの集中力並びに研究心の賜ではなかったかと推察する次第である。
嘉納師範は「柔道の修行者が文武の両道にわたって研究練習を積んでこそはじめて国家社会に大いに貢献することも出来、世人から尊敬を受けることも出来るのである」と話されているように、野依博士こそ、まさしく嘉納師範が唱える知・徳・体を等しく修行し、武士道精神を心の支えに知徳をもって立派に名を為した日本が世界に誇る国際人の一人と言えるであろう。
全柔連では、昨年八月「第1回少年柔道指導者セミナー」を開催した。上村会長が冒頭挨拶の中で、「柔道を通した人づくりのためには指導者の養成が必要不可欠である」と言っておられる通り、柔道修行のコンセプトに立ち返るためにも誠に時宜を得た研修会だと思っている。今回の指導者セミナーでは、少年柔道の抱える様々な問題を取り上げながら情報の共有化を図ったようであるが、それ自体は勿論非常に大切なことではあるのだが一つ悔やまれることがある。それは、体育の新学習指導要領改訂の趣旨等を詳細に説明する講座が無かったことである。必要且つ有意義なセミナーであるならば尚更のこと、学校教育の目指す方向性を明確に示し理解させることが肝要と思うのである。なぜならば、これら児童生徒は、学校教育という大きな括(くく)りの中で生活しながら放課後等に柔道と係わりを持っているからである。
本県の指導者登録者の80%超が学校関係者以外の一般有段者で占められている。恐らく各都道府県においてもその割合に大きな差異はないものと思われる。そういう意味において、このような教育行政が意図する教育の方向性や意義・ねらい等を、町道場やスポーツ少年団等で指導する民間指導者が学校教育の良きパートナーとして正しく理解し、子供たちに豊かな心を育ませ、逞しく生きる力や我が国の文化と伝統を尊重する態度を身に付けさせることが、嘉納師範が理想とする柔道の基本理念(コンセプト)に限り無く近づくことになるものと確信する次第である。
(青森県柔道連盟会長)
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