HOME > 今月のことば > 2007年12月

今月のことば

2007年12月

私と柔道との出会い、そして人生路

大橋 誠也

 終戦も近い昭和二十年三月、爆撃を逃れ、東京は浅草三筋町から栃木県栃木市に両親と五人の姉弟達の大家族が疎開した。私が小学三年生の時で疎開先では食物がなく、育ち盛りの子供には、大変な苦労で言葉にも言い表せない辛い時代でした。
 時は流れて中学一年の時、学校の近くに町道場があるのに気付き、やってみたいと思い見学しているうち門人達と仲良しになり、両親に相談した処、渋々許しが出ました。
 戦後間もない頃で、近所には柔道衣など売っている店もなく、父が三ヵ月かけ上衣を探してくれた。下穿は姉が縫ってくれた。
 晴れて昭和二十五年二月、修心館椎名道場に入門出来ました。この道場は、館長は七段・椎名応夫先生で、三男の方は日本大学を出て現在もニューヨークで道場を持っている八段・椎名 清先生です。
 道場の掃除から稽古が始まり腕力頼りの柔道であったが数年たち柔道修行にも慣れ、県内の種々大会に出場出来るようになりました。
 国体県予選・一般の部に出場したが、二年連続して決勝戦で敗れ、無念の思いが更なる闘志をかき立て、稽古を重ね、「もっと稽古をしたい」と機会を各方面の先生方にお願いしていたところ、旧宇都宮刑務所の高橋良雄所長が、県内の有望な選手を募集しているとのことを聞き早速受験をして、自動車整備士の免許を捨て、昭和三十四年三月宇都宮刑務所に刑務官として拝命することになりました。当時三段。
 矯正職員の柔道大会は、東京管区大会及び全国大会の個人及び団体戦があり、それを目標に毎日が稽古・稽古・トレーニングに明け暮れ、多くの悔し涙を流したが、昭和三十九年全国矯正職員柔道大会団体試合において念願の全国優勝を飾ることができました。何せこの優勝旗が利根川を渡ることがないといわれ、それは関係者一同の大変な喜びでありました。
 柔道に明け暮れの歳月が流れ、「雇われ師範でもよいから道場を持ってみたい」という私の夢が叶えられる日がやってきました。
 夢を実現してくれたその方は、講道館八段・青木忠三先生(栃木県柔道連盟副会長)であります。北関東随一の警備会社の創業者で昭和五十八年当時四百人の警備員のいる会社でした。
 警備員には、武道は不可欠との考えで宇都宮市内に青木武道館を建設し、その師範として務めてくれと謂われ二十五年間勤めさせていただいた刑務官を退職、警備会社に入社をいたしました。
 道場は、徐々に入門生が増え県内の各大会に出場し多くの賞を戴きました。少年大会を主催、韓国との柔道交流試合は、今でも続いています。
 勿論、警備員の柔道、護身術の指導等を通じ武道に対する意識も向上し、近辺の会社に出張し護身術の指導などにもあたっております。
 警備会社の全国大会にも優勝し、平成十一年には、講道館八段を頂きました。
 更に月日は流れて、二十七年近く勤めさせていただいたこの警備会社を六十七歳で退職いたしました。
 本年四月、県柔連の皆様から栃木県柔道連盟会長として選出され、目標にすることは、左の通りです。
 一 柔道を学ぶ者の為に開かれた組織でなければならない。
 二 古きよき時代の厳しい再生教育を奨励する。
 三 選手を育てる現場を応援する。
 私も柔道教室を持ち稽古に励んでおります。
 講道館主催の全国高段者柔道大会に三十四回出場しており、次の三十五回を目標にしております。
 人にして貰うのでなく、自分に何ができるのかであると思っています。

(栃木県柔道連盟会長)

最新記事