今月のことば
2020年5月
嘉納治五郎師範と灘中学校
和田孫博
母校である灘校に英語教諭として奉職し44年が経つが、校長になって以降の13年間は、中学1年生に道徳の一環として校史を教えてきた。授業準備のために創立時の経緯や創立に関わった人たちを調べてみて、あらためて嘉納師範の偉大さを痛感している。後にも述べるが、初代校長の招聘から建学の精神の制定まで、師範が創設に参画していなければ、今の本校は無いと言っても過言ではない。師範と灘中学校創設との関わりについて述べたい。
嘉納師範は1860(万延元)年、灘五郷の1つ御影郷に生まれた。生家は菊正宗酒造を経営する本嘉納家の分家筋に当たり、父の治郎作は当時最大の消費地であった江戸に清酒を送る廻船業を営んでいた。幕末の幕府で廻船方御用達を務め、勝海舟のパトロン的存在で、和田岬砲台の建造を請け負った。神戸海軍操練所の開設中、勝は治郎作の家に滞在していたという。師範はその時まだ3、4歳だったが、物心はついていたのではなかろうか。後に東京に出てからも勝との交際は続き、講道館の道場落成式に来賓として招待している。講道館には勝の扁額が今も保存されていると聞く。
嘉納師範は講道館を開設するのとほぼ同時期に、頼ってきた書生たちを集めて嘉納塾を開設した。おそらくは講道館員とメンバーがかなりかぶっていたと思われるが、講道館は「武」を鍛える場であり、嘉納塾は「文」を鍛える場という区別をつけていたのだろう。まさに「文武両道」を実践したのである。また、師範は「文武不岐」という言葉をしばしば使っている。「文武両道」は「文」と「武」は別々のものでありその両方をやろうと推奨している感があるが、「文武不岐」なら「文」と「武」は本来分けられないものであるということになる。つまり、学問においても集中力や忍耐力など「武」の要素が不可欠だし、スポーツでも、thinking baseballという言葉もあるように、「文」の要素が不可欠なのである。
師範はまた、揮毫において右肩に押す引首印に「文経武緯」という言葉をしばしば用いている(本校の柔道場に掲っている「精力善用」「自他共栄」の師範の真筆の扁額にもこの引首印が押されている)が、これは「文」が縦糸で「武」が横糸であり、すべてのものがこの両要素によって成り立っていることを伝えていると考えられる。中国の晋書に「緯武経文」という言葉があるからこれを逆さまにして使ったのかもしれないが、師範の考えの深さが窺い知れよう。
この文武不岐の考え方の下、1922(大正11)年に文化活動の推進を企図した講道館文化会が設立された。講道館精神を表す「精力善用」「自他共栄」はこの設立時に師範が発表されたものである。「精力善用」は精力の最善活用を意味し、自らの持てる力を最大限に発揮せよという教えである。「自他共栄」はある講演の中で師範が「相助相譲自他共栄」と述べられており、助け合い譲り合って自他ともに幸せになろうという呼びかけである。
筆者はこの2つの言葉は別々のものではなく、両方が揃って初めて意味を成すのだと考えている。人にはそれぞれ個性があり、持てる能力もさまざまである。ある人は自分の持てる力を最大限に発揮する。また別の人も自分の持てる力を発揮する。そういう多様な人々の力が集まって1つのことが成し遂げられれば、参画したみんなが幸せになれるということだと思うのである。また、これは個人同士だけのことではなく、集団同士にも当てはまるし、国家同士でも同じだと考える。どの国も持てる力は異なるが、それぞれの国ができることを最大限に努力して行い、他国と協働して平和な世界を構築していくという国際協力にも繋がる思想である。
嘉納師範は、自らの理想とする教育を実現するために、自分で学校を創設しようと考えていた時期もあった。そのために千葉県我孫子の手賀沼畔に一万坪を越える土地を取得していた。しかし、IOC委員としての仕事に加え、1922年には勅撰の貴族院議員に就任し、多忙を極めてこの計画を断念した。敷地は嘉納農園として貸し出したそうである。そういう矢先、出身地である御影の人たちから、私立の中学校を創りたいので力を貸してほしいと相談を受けたのである。
現在の阪神間と呼ばれる地域は、明治以降大阪の財界人が好んで住居を構え、子弟教育に非常に熱心で、公立中学校への進学が極めて難しかった。そこで過剰な受験熱を緩和するために地域の有力者が相談し、地元出身で教育者として高名な嘉納師範に新中学校創設の顧問を依頼したのである。前述のように、理想の学校の創設の夢を断念したところであった師範は、二つ返事で顧問を引き受け、自らの親戚筋に当たる大手酒造家に資金提供の依頼までした。そして、東京高等師範学校長時代の教え子の中から気骨ありと見込んだ者を校長に推挙した。この白羽の矢が立ったのが眞田範衞。30代後半という若さですでに京都の亀岡高等女学校の校長であった。師範は眞田に電報を打ち、京都駅食堂に呼び出して、新中学校の校長就任を呑ませた。しばらくして眞田が校地を視察に行ったとき、校地となる住吉川原の空き地は、まだ何もない草原だったと彼の回顧録に書かれている。
眞田は出資者の酒造会社と相談し、校舎の建設から教員の招聘、生徒募集まで精力的に行い、1927(昭和2)年10月24日に設立認可が下り、翌1928年春に開校にこぎつけた。嘉納師範はその間何度も足を運び、眞田の相談に乗るとともに、建学の精神として「精力善用」「自他共栄」を掲げた。これは現在に至るまで、校是として灘校教育の精神的柱となっている。また、学校運営の実務は一切眞田校長に任せたのだが、開校後もたびたび訪問し、生徒たちを講堂に集め訓話を施している。灘校が現在のような有数の私立中学高等学校になったのは、戦後の学制改革や兵庫県の学校制度などの外的要因に加え、教職員や生徒諸氏のたゆまぬ努力があったからではあるが、創立時に建学の精神を注入した嘉納師範とそれを具現化するために教員や生徒の自由・自主・自律を保証する校風を築いた眞田初代校長の存在なしには、現在の姿は考えられないところである。
(灘中学校・高等学校長)
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