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今月のことば

2019年4月号

「いだてん」の向こう側に見えるもの
―嘉納治五郎師範がめざしたオリンピック―

菊 幸一


 NHK大河ドラマ「いだてん」には、(その視聴率はともかく)脚本家・宮藤官九郎がもつ独特の感性によって、当時の嘉納治五郎師範のユニークな(あるいはユーモラスな?)人物像が描かれている。その描かれ方に賛否があることは想像に難くないが、いずれにしても1912年の第5回オリンピックストックホルム大会に初めて、日本(東洋)から2名の選手を参加させたことは紛れもない歴史的事実であり、その功績は大いに称えられてしかるべきであろう。
 しかし、当然のことながら嘉納師範の功績は、それだけに止まるものではない。その後の1940年東京大会招致に向けたオリンピックそれ自体に対する彼の考え方には、今日、「東京2020」を控えたわが国のスポーツ関係者のみならず、それに関わるすべての利害関係者にとって傾聴すべき多くの内容が含まれている。
 その1つは、オリンピックは誰のため、何のためにあるかという原点を振り返らせてくれることである。師範は当初、1912年のストックホルム大会参加に際し、文部省に援助を求めようとした。しかし、オリンピックの理解に乏しかった文部省から断られ、その前年に、いわゆる民間非営利の法人組織として大日本体育協会を創立し、当時スポーツ隆盛の基盤となっていた大学関係者に寄付を募るのである(師範自身も私財を投じている)。この行為の意味は、〈スポーツ?オリンピック〉の政策が国家によってコントロールされるのでなく、スポーツにさまざまな意義や価値を認める民意によって支えられることを示したことにあるように思う。それは純粋なアマチュアリズムに基づく行為であるとも捉えることができよう。
 しかし、それよりも重要なのは、そのことが、スポーツへの愛着に基づく意義や価値の広がりを求める多くの人々(あるいは組織)から支持されたという事実であり、またそれが寄付行為となって体現されたことで、自律的で、自立的なスポーツ政策を推進する主体とはそもそも誰なのか、を示したところにある。少なくとも、民間?非政府組織(NGO)としての諸スポーツ団体が、「東京2020」を目前にして、その後のわが国におけるスポーツ推進を展望していく上で、積極的なスポーツ政策の担い手となっていかなければならない歴史的原点がここにはあるように思われる。
 時代は進んで、1964年東京大会の柔道会場での一コマ。無差別決勝戦で、日本代表の神永昭夫が、オランダ代表のA・ヘーシンクに一本負けしたあの瞬間、ヘーシンクは即座に試合場外に向かって右手をかざし、何かを制止しようとした。喜び勇んで畳に駆け上ろうとする自国関係者を押し止めたのである。その後の互いによる静かな立礼と、真剣に勝負した者だけがわかり合える笑顔の抱擁。そこには、まさに互いに精力を善く尽す=精力を善用した者同士にしかわからない相互尊敬、すなわち「自他共栄」の姿が体現されていたように思う。
 思えば、嘉納師範は1940年オリンピック東京大会を開催するにあたって、意外にも柔道の正式種目採用には賛成しなかったといわれている。それは、なぜか。彼は、精力善用の「善」の条件として、常に真剣勝負を行う対等な環境を求めていたからである。すなわち、柔道が十分に世界に広がっていない現状では、その条件が整っているとはいえず、日本の一人勝ちではオリンピックがめざす世界の平和と友好の礎を築くことはできないと考えていたのであろう。「自他共栄」のオリンピックとは、互いが対等な立場で精力(実力)を最有効活用する関係を整えなければ、結果としてオリンピックが求める平和と友好、すなわち彼が日本のオリンピックに求める「自他共栄」は真に実現しないということなのである。
 嘉納師範が求めた「自他共栄」の精神によってヘーシンクは日本での修行を重ね、ついには日本選手に勝つまでに成長していった。もちろんその背景には、この精神を体した民間非営利組織としての講道館柔道による地道な海外普及による成果があることは言うまでもない。だから、もし神永が勝っていたら、柔道はオリンピック種目としてその後も採用され続けていただろうか、と思わざるをえない。日本以外の国々が精力を善く用いるチャンスが与えられ、自分たちも勝てるのだという夢や希望が与えられること、そしてその結果としてより強い絆と友情で結ばれる可能性が拓かれること、これこそが嘉納師範のめざした「自他共栄」のオリンピックだったのではなかろうか。
 さて、「東京2020」である。相変わらず、メディアでは日本が金メダル30個以上をとれるだろうとか、中でも柔道にはその期待が大きく寄せられるとかいった話題で持ちきりである。もちろん、メダル獲得への関心はあって当然であろう。しかし、世界の人口約60億超の人々に与えられる金メダルは、わずか計300個余に過ぎない。これをいくら開催国といえども、仮に金メダル15個を獲得したとしても(日本の人口比からいえば)取りすぎであろうことは小学生にもわかる理屈である。むしろ日本は、このような金メダル獲得のエネルギー(精力)をこれまで一度もメダルはおろか入賞すらしたことのない国々(例えば東アジアの途上国)に対して、これを実現させるための「善用」を通じて、スポーツによる積極的平和主義ともいえるムーブメントを民間非営利スポーツ団体が中心となって「静かに」展開すべきであったのではなかろうか。
 確かに「東京2020」の招致決定後、日本政府は今日まで" Sport for Tomorrow"をはじめとするスポーツ外交を積極的に展開してきたが、これを一過性のイベントに終わらせないためには、ポスト「東京2020」における地に足を付けた地道で継続的なスポーツ推進に向けたサポートが必要である。そのためには、嘉納師範が創立した(日本体育協会改め)日本スポーツ協会もさることながら、何よりもその実績と成果を積み上げてきた講道館柔道の原点を今こそ、「自他共栄」のオリンピックとして「東京2020」のビジョンに投影しても遅きに失したことにはならないように思う。
 我々日本人は、「いだてん」の向こう側に何を見ているのであろうか。「東京2020」開催の意義は、今もなお、これとつながっていることを忘れてはならない。
                           (筑波大学体育系教授)

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