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今月のことば

2016年7月号

嘉納治五郎師範がめざした柔道と

オリンピック―MIND活動に寄せて-

菊 幸一

 

  講道館柔道の祖、嘉納治五郎師範の業績は、柔術から柔道への発明、そして幻のオリンピックといわれた1940年東京オリンピック大会招致を東洋初のIOC委員として成功させたことに集約されよう。一般的に、柔道については近代スポーツの発展としてとらえられ、オリンピック大会招致については、近代国家日本の存在(さらには優位性)を世界に発信する機会を得たことで評価されているように思われる。しかし、筆者は『現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか』(ミネルヴァ書房、2014年)を編んでいく中で、このような理解が極めて表層的なものだったことに気づかされた。むしろ嘉納師範の苦悩とも呼ぶべき課題が、現代の柔道やオリンピックの在り方に通底する内容を持っていることに驚かされたのである。
 嘉納師範は、投げる、倒す、絞めるなど、そのものを取り出せば単なる「暴力」としか受けとめられない行為に、「背負投」「大内刈」「送襟絞」などの名称(ラベル)を付与することで、これを「技」化した。言い換えれば、身体の暴力的なエネルギーを逆に技を達成するという目的の手段と考えることで、そのエネルギーをコントロールすること自体に社会的意義を見出したのである。これが、柔道の「近代化」の内実であり、「精力善用」の「善」の第一の意味であった。しかし、と同時に、彼は実際(現実生活)の暴力への対応において、柔道の「武」の有効性(武術性)にもこだわったといわれる。立技から入ることへのこだわりや、形から乱取への発展、また一説にある異種格闘技への強い関心などは、そのことを示しているといわれる。つまり、柔道はいかなる相手の実際的な暴力をもコントロールするという、実用主義的な効用を達成することで、結果的には「自他共栄」の人間関係を(現実社会に)築き上げることへ昇華されるべき身体運動「文化」でなければならなかったのである。
 しかし、彼が生きている間にも、柔道は急速にスポーツ化した。その結果、試合という非日常空間での勝敗のみにこだわる柔道、寝技中心の柔道、変則的な柔道などに暴走し始める。嘉納師範の苦悩は、彼の理想の柔道を、試合を禁ずる女子柔道に求めるほどに深まっていく。また、彼は柔道修行における「講義」と「問答」を重視することによって、再度言葉によって理解し、実践する教育的原点に立ち返ろうとしたのである。
 他方、オリンピックについては、欧米基準ではなく日本らしいオリンピックをめざすべきことを強調するとともに、これとは別に当然メダルの量産が期待される柔道の正式種目への導入には賛成しなかった。いわく、柔道はまだまだ世界に広がっておらず、今、オリンピックに導入すれば日本の1人勝ちとなり、オリンピックの趣旨に反するというわけである。「自他共栄」のオリンピックとなるためには、互いの力が拮抗する中で精力を最有効活用(「精力善用」)する環境でなければならないということであろうか。そこには、現代スポーツが忘れかけている徹底したフェアプレーの精神、フェアネスへの希求が読み取れる。そのような真剣勝負への環境づくりこそが、結果的には互いを尊重し、理解し合える友好な関係を築くことになるのだということであろう。
 さて、現代柔道は、この嘉納師範の苦悩をどのように受けとめるべきであろうか。筆者には、残念ながらこの苦悩を真剣に受け止めてこなかったツケが、いまだに柔道界に重くのしかかっているように思えてならない。遅ればせながら、一連の不祥事を受けとめる形で全柔連が自発的に運動を展開している「柔道MIND」活動こそが、その苦悩を引き継ぎ、解決しようとする一筋の光明のようにも思える。M=Manner とは、型や作法の重視である。嘉納師範は、柔道を近代化していく上でまず技の「型」にこだわり、暴力行為を非暴力化することに成功した。I=Independence とは、自立することである。自らの行為を常に反省し改良、改善を加えていくためには、行為を言語化し、他者と積極的にコミュニケーションをとり、他者への依存(相手がいること)によって柔道が成り立っていることに感謝し、これを尊重する態度を身に付けることが大切である。嘉納師範は、被指導者ばかりでなく指導者にも、誰へだてなくこのことを求めた。その具体的な言語的実践が、講義と問答なのである。N=Nobility、D=Dignity は、いずれも高潔や品位、品格といった意味である。これは、一見これまでの型や言語といった基礎的な習得レベルとは異なる、身体化されたレベルの雰囲気や所作が、一般社会の人々に尊敬や敬意をもって暗黙の裡に迎えられる状態を意味している。
 かつて、近代スポーツ発祥の地イギリスでは、スポーツ教育の成果がよりよい社会を築き、これを体現するスポーツへの礼賛を「Athleticism(アスレティシズム)」と表現し、その担い手を「Athlete(アスリート)」と呼称した。したがって、アスリートという言葉は、単なるスポーツ競技者を指すのではなく、そこで身に付けた高潔性や品格が、よりよき社会をリードする具体的モデルとして尊敬される人物像を意味しているのである。
 したがって、柔道MIND活動がめざす目標は、真のアスリートに匹敵する、あるいはそれ以上の「柔道家」を育成していくことにあると考えられよう。そのことによって、ようやく今を生きるわれわれは嘉納師範の苦悩に、真に向き合うことができるのである。
(筑波大学体育系教授)

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