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今月のことば

2016年8月号

柔道への思い

須坂春樹

  私は神奈川県横須賀に生まれ、柔道を志して"開国の町"の町道場で偉大なる先輩方と共に柔道の教えを受けた。
 2020(平成32)年には東京で2回目のオリンピックが開催されるが、終戦から19年後の1964(昭和39)年には、いまだ復興途上といえる日本で初めての東京オリンピックが開催された。国民が一丸となって世界に発信した大会であった。
 東京オリンピック重量級金メダリストとなった猪熊功氏は、横須賀に育ち、町道場である渡辺道場に入門。"力必達"が指導理念であった渡辺利一郎師範に鍛えられ"闘魂"が培われた。全日本選手権大会を1959(昭和34)年と1963(昭和38)年の2度制し、東京オリンピック金メダル、その翌年の世界選手権では無差別で優勝という猪熊氏の柔道戦歴は輝かしい。その存在感は大きく、天才かつ努力家、怒涛の精神と統率力を持つ柔能く剛を制する柔道家であり、我々の英雄であった。
 横須賀は東京湾の入口に位置するため江戸時代から国防の拠点とされ、大日本帝国海軍横須賀鎮守府を擁する軍港都市として栄えた。終戦後の1945(昭和20)年8月30日、アメリカ海兵隊が上陸、米海軍横須賀基地司令部が発足し、現在もアメリカ海軍第7艦隊横須賀海軍施設が置かれている。
 猪熊氏を育てた渡辺利一郎氏はこの地に戦後まもなく道場を構えた。渡辺氏は栃木県足利市に生まれ、飯塚国三郎十段の門下生として修行し、1941(昭和16)年には全日本選士権大会で3位に入賞、その後は多くの青少年を育成、戦後柔道の発展に尽力された。
 渡辺道場では多くの若者たちが鎬を削り、"渡辺精神"を受け継ぐ数多くの門人を輩出した。森徹氏(故人)は柔道と野球の両道に励み、早稲田大学から中日ドラゴンズに入団。1959(昭和34)年にはセ・リーグ本塁打王・打点王の2冠に輝くなど実績を残した。プロ野球引退後はまた柔道修行に戻り、六段まで昇段した。大相撲にスカウトされた廣川泰三氏(故人)は小結まで昇進し、後に宮城野親方となって部屋を継承した。また、渡辺氏は軍基地の外国人にも柔道を広め、その1人アルセイカ七段はアメリカ代表となって世界選手権大会に出場した。開国の地横須賀の渡辺道場は、偉大な人物を輩出する聖地であった。
 私は、彼らと同時期に同じ渡辺道場の門を叩き稽古に励み、戦歴と華やかさは大いに違いはあるものの、雑草魂を心に秘め、稽古は切磋琢磨の精神をもって努めた。渡辺道場の稽古は厳しく、立ち向かう精神と戦う姿勢を叩き込まれ、猪熊氏もここから生まれたのであった。猪熊氏の闘魂に尊敬の念を抱きながら、黙々と稽古に励んだ日々が、走馬燈のよう思い出される。
 1978(昭和53)年、渡辺利一郎氏が第8代神奈川県柔道連盟会長に就任し、柔道の普及発展と所属各団体相互の親睦融和を図り、併せて会員の人格陶冶に尽力した。1998(平成10)年、猪熊功氏が第10代会長に就任、渡辺氏の方針を継承して柔道の普及発展と人材育成のための改革を提唱し、私はその下で組織づくりと選手強化にあたった。
 そして、2001(平成13)年、第11代会長に私が推挙され就任、3代に亘る"力必達"精神で今日までこの重責にあたってきたことを身に余る光栄と感謝している。指導者として、また組織の長として、柔道に真から情熱を傾け、渡辺氏の教えとその示された道に従い努力し、質実剛健を貫いたからこそ今日があると確信する。
私の使命は人づくりであると心得ている。礼を知り、相手の気持ちが分かる人を育てたいと半世紀に亘る柔道一筋の人生で常に肝に銘じてきた。何かを変えるには指導者、即ち組織的に方向を示す立場の者が変わらなければならない。品格、品性、そして武士道に基づく知性と教養を十分に備え、その意義をしっかりと理解した指導者を育てたい。  国際柔道連盟に200もの国と地域が加盟している今日であるが、現在の柔道は競技化、スポーツ化が進み、競技成績や勝敗ばかりが注目され、柔道の本質であるべき教育面が薄れている。今こそ、柔道の原点に立ち返り、身体活動を通しての鍛錬修養による青少年の健全育成や、福祉活動などを通しての人間教育を重視した事業を推進する必要性を感じている。
 私は2013(平成25)年から講道館監査班審議員を務め、日本中から推薦されてくる男子の初段から五段までの候補者の最終審議の任にあたっている。柔道の段位は、修練した技術と精神の積み重ねであり、人格形成の修行の中で与えられる称号である。自らの昇段を誇り高く意識し、称号であるという自負と、昇段を志すことは柔道人の責務であるという心構えをもつことが必要である。この姿勢が、段位の重さを後世へ正しく伝えてゆくことになる。
 嘉納治五郎師範により創始された柔道は単に勝ち負けを争う競技ではなく、他者を思いやり、規律と道徳を重んじ、精神的な成長をも目的とする、日本が世界に誇ることができる素晴らしい日本文化であり武道である。"精力善用""自他共栄"の精神をもって、柔道を誇り高く修行の道として今日まで伝承してきた先人たちの努力を忘れてはならない。  生涯修行と有言される柔道界の重鎮に日々指導を仰ぎながら、私も長年に亘り柔道教育に携わることができた。今は、柔道人として柔道に恩返しがしたいと心に刻んでいる。相手がいるからこそ自分がいるという敬意と感謝の気持ちを忘れずに、生涯畳の上に立ち続けたい。
 揺るぎない世界の頂点に立つ日本柔道は講道館柔道である。世界の柔道愛好者と共に日本傳講道館柔道の益々の隆盛を祈念する。
(神奈川県柔道連盟会長)

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