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今月のことば

2023年3月

素晴らしい柔道との出会い

吉田忠征


 傘寿を迎えるまであと1年半、この年齢になると、来し方行く末を考えることがよくある。もし、自分と柔道の出会いがなかったなら、どのような職業に就き、どのような人生を送っていたのであろうかと、いろいろ思い巡らすと、気持ちが滅入ってくることに気付く。つまり、我が人生に「柔道」の2文字が消えたら、柔道を通じた多くの人との接点もなく面白味のない無味乾燥な一生になってしまったかもしれないと、しみじみ思うのである。10歳の時、警察官であった父から警察の道場に連れていかれ、先ずは膝立ちの姿勢から手を引かれ、何度も何度も前に転がされて受身を覚えさせられたものである。同時に座り方、礼の仕方なども厳しく叩き込まれた。
 小学校時代、喘息持ちの虚弱体質であった息子を少しでも丈夫な身体にという親心からの配慮であったようである。また、その頃の子どもの娯楽といえば、ビー玉、めんこ、ベーゴマ、少年雑誌の回し読みだった。そして、何篇かの柔道漫画が人気絶頂にあり、私も夢中になって読み耽り、そのストーリーは正義感と力強さが描かれていた。柔道への憧れの気持ちと、父の柔道へのいざないが相俟ったこのときが、私の柔道人生のスタートであった。
 中学校入学とともに柔道部に入部したものの、体重は40kg前後で投げられることが多く、顧問の先生からは受身の上手さを褒められ、それだけで有頂天になっていた。中学校のチームは栃木県内で団体優勝はしたものの、私は選手の末席にいる程度の技量で、目立つ戦績は何もなかったが、あれほど苦しめられた喘息発作は嘘のように消滅し、小学校時代に100日を超えていた欠席日数も全く無くなっていった。
 次いで進学した県立宇都宮高校では、迷わず柔道部に入部し、東京高等師範学校を卒業された増山陽章先生(後に第五代栃木県柔連会長)に師事。初めての夏合宿では、今まで体験したことのない厳しい練習を経て、益々柔道にのめり込んでいった。もちろんこの頃の戦績も地区大会(関東高校大会)出場と全国大会県予選でやっと決勝戦に届いた程度で、特筆されるものは何もなかった。
 もう少し柔道を学んでみたい気持ちと、運動神経が人より多少勝っていたようなことから、東京教育大学を受験した。受験会場で問題用紙を配布していた肩幅の広い大学関係者を見て驚嘆した。当時、最年少記録で全日本選手権を獲った猪熊功先生だった。田舎の柔道少年が上京し、試験会場で全日本選手権者に遭遇するその大きな衝撃は計り知れないものであった。
 私が入学した昭和38年、柔道部監督であった猪熊功先生は、全日本選手権で2度目の優勝を果した。翌年の東京オリンピックでは、重量級で見事に金メダルを獲得し、日本武道館地階に集まった我ら柔道部員の歓喜に満ちた胴上げに空中を舞った姿を、58年経った今でも鮮明に思い出される。このように、高校時代とは違った柔道環境に放り込まれ、上級生の中に中村良三九段や佐藤宣践九段がいて、日本のトップを目指す柔道に取り組む姿勢は尊敬に値するものがあり、自分の柔道に対する甘い考えを打ち砕いてくれ、厳しい稽古から逃げようとする私の弱い気持ちの軌道修正に大きな助けとなった。
 大学3年生ぐらいになると、大体自分の柔道の力量も判るようになり、東京学生柔道連盟(学柔連)委員に選ばれ、他大学の仲間とともに、東京学生優勝大会、全日本学生優勝大会の運営に携わるようになった。まさに縁の下の力持ちの業務であったが、そのとき大会運昭和42年、大学卒業と同時に郷里の栃木に戻り、県立高校の教員として奉職、以来38年に亘り柔道部顧問を務めながら、1人でも多くの柔道経験者を増やそうとの信念から、多くの生徒に声掛けをして柔道部への入部を誘ったものである。入部させたなら卒業まできちんと面倒を見ること、柔道修行と学業を両立させること、柔道で学んだ礼法等の日常化を図ることなどを常に意識しながら生徒に接してきた。退部を申し出てきた者に対しては、その気持ちを翻意させるため、あらゆる手段を駆使して説得を続け、常時30人以上の部員がいて、そのうち約6割は柔道未経験の初心者であった。特に非力で体力的に恵まれず、選手としての活躍は望めなかった部員に対しては、卒業時まで継続した努力に報いる称賛を忘れないようにした。このように、教員として柔道を通した社会に貢献できる人づくりを目指し、生徒たちに接することができ、世に送り出した生徒が社会のあらゆる分野で活躍する姿は、私の大きな財産であると考えている。私がこのように柔道によって育まれてきたのは、恩師、先輩方、一緒に汗した仲間、柔道界で巡り合った多くの人たちに恵まれたからである。すべて感謝と思わずにはいられない。選手としての活躍は特筆するものは何もない。しかし、柔道にどっぷりと浸かった人生は幸せの一語に尽きる。この幸せの恩返しとして、少年少女を含む多くの柔道人のために良かれと思うことをいくつか提案させてもらってきた。営のノウハウを学んだことは、その後の幾多の大会運営に役立ったことは言うまでもない。また、他大学の柔道仲間との交流も新鮮なものがあり、少なからず視野を広めることに繋がった。
 約30年前、大会の監督席からの怒号是正のための監督服装の整備、明らかな審判ミスによる裁定やり直し、試合開始直後の礼法徹底、初段年齢14歳を中学2年生とする解釈の全国統一化、高段者大会の参加奨励点の付与、国体ストレート種別の全面見直し等である。提案当時は反論もあったが、何とか実現することができた。例えば、インターハイで一本勝ちをした選手が主審の差し違えで負けにされてしまい、当時の規程ではどうすることもできず、教育的に大きな問題となった時、高体連専門部だけの独自ルールを作り、審判員が試合場を去っても、明らかな間違いの場合は裁定のやり直しができるようにしたのである。当時、ある柔道界の幹部の方から、高体連だけがなぜ勝手なルールを作るのかという意見があったと耳にしたが、今となっては世界のルールとしてしっかり定着しているのである。柔道修行者にとって励みや、やる気に結び付く改革・改変は、これからも必要なことであるし、これからを担う若い指導者には、是非、勇気ある提言をお願いしたいと思っている。
 特に喫緊の問題である柔道人口の減少に関しては、この柔道を学ぶ意志があったにもかかわらず、何らかの理由で途中退部・退会して柔道界を去ってしまう人がいること、つまり、教える者と教わる者とのミスマッチを防ぐ手立てはないのだろうかと思っている。このことが上手く解決できたなら、柔道人口は確実に一、二割増加するのではないかと考えている。これからの若い指導者の柔道界活性化に対する斬新なアイディアに期待しながら擱筆する。
                      (栃木県柔道連盟会長)

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