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今月のことば

2006年07月

「キレる」種と「律する」土台

冲永 荘一

 世界はすでにサッカー・ワールドカップ一色の五月末、久しぶりに読ませる記事に出会った。朝日新聞の夕刊一面に連載されている「ニッポン人脈記」、そこに掲載(十回)された「柔道のこころ」である。
十四歳のころから柔道を始めたロシアのプーチン大統領や東京五輪の金メダリスト、ヘーシンク氏ら外国勢はもとより九十三歳の高齢ながらいまなお米国で教える女性初の九段、福田敬子氏、本年一月、最高位の十段に昇段した安部一郎氏ら三名の先輩の方々と、たくさんの柔道家が紙面に登場した。
そして、私を最も嬉しがらせ、感動させたのは、柔道の猛者(猛女)である誰もが凄まじくジェントルマンであり、レディーであったことだ。
彼らは柔道を「相手との調和を求めるもの」(プーチン大統領)「相手に対する尊敬の気持ちが大事」(山下泰裕氏)と語り、フランス人指導者は「自分を律する心を日本語で学びました」とまで言ってのけた。
ほとんどの読者にとって、時々、テレビで見る試合とは一味も二味も違った柔道、その「道」の奥行きの深さを初めて知る機会になったのではなかろうか。

 しかし、喜んでばかりはいられない、と気がついた。自分を律する心、生き方を柔道というスポーツを通して世界に届けるわが国なのに、振り返れば、最近の国内は「律する」どころか「キレる」現象ばかり目立つ。
 幼女殺害事件など、ちょっと前の日本ではとても考えられない異常な犯罪が続発しているのはご承知の通りだし、学級崩壊、いじめ、非行など教育現場の荒廃から若者の無気力化まで、あげたら切りがない深刻な状況が拡がっている。
これはどうも、戦後間もなくわが国に播かれた種が多かれ少なかれ災いしているようだ。この種子は西欧からやってきた外来種の「自由」と「平等」、かつて日本の畑にきちんと播かれたことは一度もなかった。それでもなんとか育ててこられたのは、日本人の国民性ともいうべき「追いつき追い越せ」の精神がフルに発揮されたからであろう。
 とはいえ、花や実のつき方は、原産地に比べて貧弱、私たちにとってひっかかるところが少なくなかった。
 自由とは、自制心を持たない自由、自己責任をともなわないエゴイズム(利己主義)を感じさせた。平等とは結果の平等、いいかえれば、誰もが等しくエゴイズムを持つ権利のようであった。
小学校の運動会、みんなで手をつないで走る徒競走がいい例である。この六十年の間に膨らんだエゴイズムが「律する」心を押しのけ、「キレる」時代への火つけ役を果たしたと思えてならない。

とはいえ、日本や日本人に絶望するのはまだ、早い。なぜなら大多数の日本人は、いまを「異常」と感じ、「このままではいけない」と思っているからだ。
例えは悪いが、万一、わが国が大災害に見舞われたら、昨夏、超大型のハリケーンが襲ったニューオリンズのように略奪が横行するだろうか。阪神・淡路大震災の例をあげるまでもなく、誰もが「起こらない」と否定するに違いない。
時代は日本と日本人を大きく変えつつあるものの、私たちの土台を支える規範、「和」のDNAはなお失われてはいない。
だから、わが国の政府もやっと動き出した。「このままではいけない」社会を正常化する柱として「戦後教育のゆがみの是正」をあげ、教育基本法の改正に取り組んでいる。
結構なことである。が、注文もある。私たち日本人は制度など枠組(ハード)を作るのはうまいが、その運用の仕方(ソフト)はお世辞にも褒められたものではない。
例えば、かつて文部科学省が「自ら学び、考える力を養う」ことを目的に打ち出した「ゆとり教育」。制度の目指すところは素晴らしかった。でも先生や家庭は、教え方や育て方の技を持っていなかった。いまや、そのシンボルであった「総合学習の時間」の削減、全国学力テストの実施など、かつての教育へのUターンを起こしかけている。
法の改正をやる以上は、条文の字面にこだわるよりも何を「律する」のか、そのためには何が必要なのか、その内容が国民に見えるようにしてほしいと、私は訴えたい。

 もう一度、「柔道の心」に戻ろう。連載を読んで納得したことがもうひとつあった。登場した柔道家たちは内外を問わずみんな柔道で出会った地域や友人をとことん大事にしていることである。まさに「道」の原点はそこにあった。
 東京という一地域で、仲間と微力ながら「律する」人づくりのお手伝いが出来ればと、私も願う。

(東京都柔道連盟会長・医学博士)

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