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今月のことば

2022年6月

「精力善用・自他共栄」を問い直す

大保木 輝雄


 2012(平成24)年から実施された中学校武道必修化に伴う学習指導要領の解説には「その学習を通じて我が国固有の伝統と文化に、より一層触れることができるよう指導の在り方を改善すべきだ」と述べられています。この文部科学省(以下文科省)の要請に応えるために、武道の指導に携わる者は、武道固有の伝統と文化とは何かを武道経験のない中学生に明確に説明できなければならず、なおかつ具体的な運動を処方しなければなりません。それはまた、武道を競技の一種目としてではなく、日本という国に芽生えた運動文化として捉え直し、実践知(体験知)に裏打ちされた自分の言葉を持たねばならなくなったということでもあります。
 このような現状にあって、1968(昭和43)年に設立された日本武道学会は来年55周年を迎えます。いよいよもって文科省の学習指導要領に指定された武道の9種目に共通する概念の提示が不可欠であり、「武道とは何か」を明確に示さねばならぬと感じている方々も多いのではないでしょうか。
 私もその一人として責務を感じつつ、嘉納治五郎師範(以下嘉納)の「柔道の本義と修行の目的」(『武道宝鑑』、昭和9年)という論説を読み返し、気付いたことがあります。嘉納によって示された「精力善用・自他共栄」という「柔道の理念」が「武道の理念」として適用できるのではないかということです。
 嘉納は「柔術は諸般の武術を包含して居ることは勿論であるが、人は生まれてから死ぬまで、常に無手で居るのだから、先ず自分の身體を自在に働かすことの練習をし、種々の攻撃に対して無手で応じ得るように修行することが必要である」と明記し、「柔術」が「種々の武術を総合したものである」ばかりでなく「身體を自在に働かす」攻防の在り方が基本であることをも示しています。さらに、「柔術は理論上から云へば武術に限ったものではない。細工物をするにも事務を執るにもその目的を果す為に最も有効に心身の力を応用すればそれが柔術である」という見地から、「何事にも応用し得る根本原理」を「柔道」と命名したと言います。つまり、人生一般の何事にも通底する「普遍的な原理」が「柔道」だと嘉納は断言するのです。
 この記述を踏まえると、嘉納柔道とは一般的に把握されているスポーツの一種目である柔道に限定されるべきではなく、人間の諸活動に通底する普遍的な「根本原理」のことを指しているのだと理解できるでしょう。
 嘉納の功績は、武士たちが会得すべき近世武術の内容を国の内外を問わず、身に付けていた柔術の修行と英語力を駆使して、「人間」が修めるべき「道」として外国人をも説得できる論理と原理を示したことにあります。それが集約されているのが、今日、世界の誰もが知っている「精力善用・自他共栄」の提唱なのです。
 重ねて注目しなければならないのは、嘉納が考案した「自然体」のことです。
 辞書には、「⑴ごく自然に素直に立った体の構え。特に柔道でいう。⑵特別につくろったり緊張したりすることのない、ありのままの態度」だと説明されています。嘉納はさらに踏み込み、道場における修行者に対し「自然体の姿勢を守り全身にはもちろん、手足などの局部にも力を入れずきわめて凝らず固まらず、自由自在に動作の出来るように、身体を扱い得るように練習しなければならぬ」(『柔道』第7巻第6号)と述べています。
 世界大戦の時代に強い相互理解を願って形成された嘉納の「精力善用・自他共栄」の内容は具体的な「自然体」の在り様として示されます。その「自然体」は柔道の基本であると同時に極意(「心身自在」な活動ができる到達すべき姿)でもあるという二重性を持っていることを理解しておかねばなりません。
 嘉納の弟子である富木謙治氏は「柔道と剣道の術理的接点について」(武道学研究第8巻第2号)という論考に「日本武道を特色づける第一の術理はその姿勢の在り方にある」と指摘します。それは「攻撃にも、防御にも、自在のはたらきをもちながら、しかも、正しく自然のままに立った不動の姿である」と規定し、柔道では「自然本体」、同じ内容を剣道では「無構」のことだと言います。なお、それらは禅語でいう「動中静」の姿勢であって、そのはたらきにあたっても崩れない「動静一如」の姿だと言及し、別の論考では、「静中の動・動中の静」の如きも「自然体」のはたらきとして身近のこととして理解されると指摘しています。また、寒川恒夫氏は『日本武道と東洋思想』(平凡社、2014年)で嘉納が敢えて取り上げなかったと思われる伝統的な武術の「心法」について取り上げ、「心法武術」と名付けます。さらに、「思想の問題として言えるのは、心法武術は〈わざ〉に拠りながら、しかしかえってこれを規矩つまり囚われ・執着と捉え、ついにそこから抜け出て、仏教的・道教的な真の自由に至ることをめざした東洋の超越論的遊戯論の世界を形成していた」と指摘しています。
 「心法武術」は今後、嘉納が示した「自然体」の二重性、つまり「自然体」から「自然本体」への変容を読み解くことによって明らかにされると考えられます。「自他共栄」は「精力善用」の人と人、集団と人との関係性が下支えとなって展開されていますが、「自然体」の紐解きによって、大自然と人との関係性も加わることになります。こうした考察を深め続けていくことは、武道に携わる者として自らの言葉をもつことになり、「精力善用・自他共栄」の問い直しを図ることに繫がり、現在強く求められている「共生社会」の原理として機能させることになるのではないでしょうか。
                    (日本武道学会会長)

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