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今月のことば

2018年7月号

「啐啄同時」

正木嘉美


 私が柔道を志してから間もなく半世紀を迎えようとしている。
 あの頃から今でも自らの柔道に対する「志」は変わってはいないが、国内外の社会情勢も大きく変化しており、スポーツや我々を取り巻く環境は大きな進化を求められていることを強く感じている。
 古き良き伝統を継承していくことは必要であるが、そのような中でスポーツ界の各方面で問題になっている選手と指導者の関係に「乖離」があることは本来あるべき姿ではないと思い、指導者は今後どのようにしていくべきかを自分なりに考えてみた。
 私自身、現役時代は一番になることを一心に、それぞれの時代の先生、先輩方に恵まれ日々鍛錬してきた。その中には辛さも厳しさもあったが、それを仲間と共に経験し成長の糧として吸収していくことで喜びも味わいながら達成できてきたと思っている。
 選手から指導する立場となってからは、自分自身が経験してきたことや教わってきたことを後輩たちに伝えたいと思い、所属の天理大学でも全日本チームでもその機会を与えて頂き、指導者としての経験を積むことができ現在に至っている。

 しかしながら選手時代も指導者としても自分の柔道について満足したことはなかった。だが簡単に達成できないこの柔道の奥深さが、私の心に火を灯し、苦しい時や困難に立ち向かう時のエネルギーとなっている。
 柔道だけではなく、他の武道、スポーツ、社会生活は日々変化し、人はそれに応じて常に進化し続けている。私が経験したこと教えられたことをそのまま伝えることが、今の時代には合っているのかと考えることもある。
 私は柔道の指導でしか例えられないが、楽しく柔道を学びたい者、チャンピオンを目指している者、それぞれに年齢も経験も様々である。その中にあって彼ら彼女らが何を求め、目指しているのかを見極め、それに合った指導ができることこそ本当の指導者ではないだろうか。そして伝える側と受け取る側の思いが合致した時に最大の効果を発揮することができるのではないかと考える。
 それは指導者の経験だけでも、最新の科学的理論だけでもない。その両方を指導者は理解した上で、自ら学びどのように伝えるかを考えていかなくてはならないだろう。自分の考えを力で押し付けるのは、指導者として勉強不足であろうし、あるべき姿ではないと思う。指導者こそ学び続けることが必要であると思っている。

 全日本強化コーチを務めていた時に当時監督の斉藤仁先生が、大一番に向かう選手に対し「やるべきことはやってきた。あとは表彰台のてっぺんの風を味わえるように頑張れ。あの風はいいぞ」と言って送り出していた。日々の稽古では、技を磨き、体力をつけ、ひたすら反復練習を繰り返してきた。十分な準備ができている選手たちにとっては直前に戦術をアドバイスすることより、気持ちを落ち着かせ、日々の成果を100%出せるようにリラックスさせることが必要であるからこそ、このアドバイスにつながったのだろう。これは、選手は今、何が必要なのかを考え、コーチとしてどのようなアドバイスが最善かを考えた結果であろう。一見豪快であった斉藤先生が指導者として大切なこの部分について、きめ細やかな指導ができるよう気にかけていたことを感じた。このアドバイスを受けた選手はしっかりと結果を出していたし、私自身が選手であった頃もコーチの言葉が大きな力となってきたことを改めて思い出すことができた。
 指導者が良かれと思って発した言動が選手たちに伝わっていなければ、何の意味も持たないだろうし、一歩間違えばハラスメントになってしまうだろう。

 禅の言葉に「啐啄同時」というものがある。この意味は、卵の中の雛鳥が殻を破って正に生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、親鳥が外から殻をコツコツとつつくことを「啄」という。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とのタイミングが同時になることによって殻が破れて中から雛鳥が誕生する。これが転じて「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」という。禅の修行においては、今まさに悟りを得ようとしている弟子に、師匠がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くことを表すという。正にこれこそ師弟関係、指導者のあるべき姿であろうと私は思う。
 奈良県柔道連盟会長に就任して今思うことは、奈良で柔道を学ぶすべての人たち、天理大学で上を目指し日々鍛錬する学生たち、世界で勝負する日本を代表する選手たち、それぞれに対する指導方法や求められるものは違うが、柔道の修行は競技力の向上だけではなく、その先の社会を生き抜く強さと考え方を養っていくことができるものということである。日本発祥の柔道が認められ世界のJUDOとして普及、発展している背景には、この「道」としての要素が含まれるからではないだろうか。

 奈良県出身の強豪選手の育成も大切にしながら、多くの人たちに柔道の素晴らしさを感じて頂けるように、そして感動や勇気を与えられるような柔道界となるように、微力ながらここ奈良の地でその役割が果せるよう日々精進したい。

                               (奈良県柔道連盟会長)

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