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今月のことば

2004年09月

柔道による人間形成

須貝 忠吉

 さて私共の大切な体は加齢と共に弱り衰え病むそして極限では挽回出来ないが、心は持ちようによっては、最後の一瞬で命の輝きを残すことができる。ローソクの火の消えんとして刹那の明るさのように。
 恐しい目に逢うとアドレナリンが分泌されてゾッとしたり、嬉しい時には思わずニッコリし、悲しい思いをして涙を流す。つらい仕事を頑張ってなし遂げた時には、快感を高めるドーパミンのホルモンで気分が爽快となって心が晴ればれする等、脳の働きがいろいろなホルモンを分泌して、人間の感情を表出させる機能があるとのことである。始めはギコチナイが永く続けて懸命に耐えていくと、いつの間にか物事に慣れてしまう働きが脳にある。つまり様々な感情の発露によって見届けられる人間の性格は、その人の脳の働き次第で形成されることになり、いい換れば人間の個性を脳が形成するといえる。

ちなみに「動物行動学」ノーベル賞受賞学者コンラッド・ローレンツは「幼い頃に肉体的苦痛を味わったことのない人間は、大人になって必ず不幸なことになる」と述べている。人間を駄目大人やアホにするのには、子供の頃に欲する物事をやたら好きなように与えやらせることである。腹が空いたと云えば直ぐ食物を与え、飯時まで我慢しなさいと云うこともない。あれが欲しいこれをしたいとおよそ程度、身の程、年齢不相応に何でも欲しい物を与えること、我慢する、忍ぶ、堪えることを知らない「イエス」を知って「ノー」を体験しない駄目大人に成長する。食物を作ったり家を建てるのに、数多くの下拵えが必要だ。子供の頃は人間の成長期で大人としての下拵えが大切な期間であり、人としての下拵えとは、「努力」、「忍耐」、「根性」である。

 人間は、誰でも上から真逆様に投げつけられるとゾッとする程の恐怖心が起る。体は叩きつけられて痛いし、怪我の心配もあって恐れが倍加する。投げられて空中で一瞬ハッとして緊張と恐怖心が全身を覆う。力の差があると嫌になる程一方的に叩きつけられ投げられる。立ち上り又投げられ手をついてやっと立ち上る。汗が出る額から目に汗が落ち袖でふいて立ち向う。汗は顎からしたたり落ちる。握力がなくなって相手の袖に置くだけ、こうなると思うように立っていられない程投げられる。「何クソ」歯を喰いしばってヨロヨロと立ち上るも足がフラつき腰が定まらぬ、気息奄奄として遂にダウン。

 「人は新しい習慣形成により新しい習慣の選択を決意できる。そしてその人の意志と努力によって、新しい行動を繰り返しそれにより新しい自己を形成することができる」アリストテレス。そうした苛酷な一連の動作の継続の中で、脳が本能に繋がる刺激を受けて次第に活力を増し、自らを叱咤奮い立たせ励ましながら繰り返すうちに「何クソ」精神が知らぬうちに体の中に、自分をしっかり支えて生きていく不可欠な大切なもの「魂」として、心の奥底に刷り込まれるのである。東急関連企業総裁故五島慶太は嘉納師範の教える柔道精神は「何クソ」精神だと喝破した。

 「柔道は、内面的には痛みを知る思い遣りの精神涵養の道である。武道に勤む者は修行過程に於ける痛みを知り、その克服を知り、その喜びを知る。真に道を極め人と歩む者は11敵、味方という枠を越えた高い境地を見つめて学ぶ仲間同士である」青山貴久。

 投げられても、ころがされても這い上る、負けても負けても勝負に挑む。投げられるこ11と負けることを恐れぬ習い性となる。慣れれば怖いもの、悲しむものは何も生じない。図11太くなる。恐れを知らない者は、如何なる事にも如何様にも挑戦することが可能である。一陽来福、落ちるところまで落ちたらあとはもう上るしかない。健気にも勝負に挑む一瞬11の緊迫感が不思議に試合場に立たせる。永い期間投げられたり、負けたりして心と体の痛11みを知る。そして悔しさみじめさを体得する。「何クソ」と挽回を強く意識する。痛みを11克服して開放された心地よさは、生きている喜びと共に相手の痛みや、負けた苦しみを知11り人を思いやる大切な大いなる心を育てることができるのである。

 動物は言葉なく出会ったときの匂で、戦うか戦わないかを判断している。人間も動物の11一種だからそうした能力をもっていたのだけれども、言語を獲得し言語的関係を洗練させ11てその本能を失ったと云われている。「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて栄辱を知11る」(管子)の箴言がある。文明が進むにつれて人が悪くなり、生活が豊かで便利になれ11ば人間性が失われていくのは何故か、物が豊富になり生活が豊かとなり、利便性が大にな11ると物に対する有難味がなく感謝の念が生じない。そして感激も感動もあり得ない。巷に11は夜となく昼となく携帯電話を耳に当てる老若男女の姿が見られる。物の豊かさは人間に11大切な感性や、耐える大切な心を失わせる。富める文明は、人間にとって不幸ともいえよ11う。人間は人間との関わり合いによって感動する。数多くの機器を相手にして生の人間と11の対話、交流が少ない。そこには人間の温もりが生れず、そこには感激もなく、心動かず11体又動かず、怠惰と無関心、無感動、無責任の三無主義に陥る危険性が多い。世を挙げて11科学万能時代と云うものの、阪神・淡路島大地震の大自然の猛威によって、文明や科学万11能にたよる人間の無力を痛感した筈である。

 人は死ぬ為に生れてくる。生れて後すぐ死に向って歩み始める、死への道中が即ち生で11ある。そして加齢と共に弱り、衰え、病み、痛み苦しみ悲しみを味わう。「生きる力」そ11れは「痛みを知る何クソ」精神である。「艱難汝ヲ玉ニスル」人が人となるには下拵えが11必要であり、人は人によって人となる。

 二十一世紀の高邁な思想とは、人の痛みを知る「自他共栄」の柔道精神である。

(北海道柔道連盟会長)

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