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今月のことば

2017年2月号

嘉納治五郎師範による講道館柔道の世界普及とオリンピック

永木耕介

はじめに

 平成32(2020)年、東京でオリンピック・パラリンピック大会が開催されますが、ご存知のように東京では2度目であり、1度目は昭和39(1964)年でした。そして、実は戦前の昭和11(1936)年、国際オリンピック委員会(IOC)委員であった嘉納治五郎師範が先頭に立ち、昭和15(1940)年に開催予定のオリンピック大会をアジア初の東京へ招致することに成功していました。しかし、昭和13(1938)年7月、嘉納師範逝去のわずか2ヵ月後、日中戦争による状況悪化のため日本はその東京大会を返上しました。いわゆる"幻の東京オリンピック"です。大戦は、オリンピックをはじめ世界のスポーツ界に悪影響を及ぼしただけでなく、当時すでに世界へ普及していた講道館柔道の発展にも大きなダメージを残しました。
 以下では、嘉納師範による柔道の世界普及とオリンピックというテーマで私の研究の一端をご紹介申し上げます。
 
世界普及
  明治42(1909)年、IOC会長であったフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵から依頼を受けた嘉納師範は、アジア初のIOC委員となり、明治45(1912)年の第5回オリンピック・ストックホルム大会に日本選手団団長として初参加しました。以降、師範はヨーロッパを中心に開催されたオリンピック大会への参加と並行して、柔道の普及に携わります。
 まず、顕著な活動の1つは、イギリス・ロンドンの「武道会(Budokwai)」におけるものです。嘉納師範は大正9(1920)年、当地ですでに柔術(Ju-Jutsu)を広めていた日本人の小泉軍治と谷幸雄に接見し、彼らを講道館に入門させて柔道普及の拠点とします。小泉や谷は、明治期半ば以降、日本を飛び出して欧米各地に柔術を広めていた日本人の典型でした。特に小泉はその後、まるで師範の代理人のごとくヨーロッパ中に柔道を普及させていきます。小泉が師範の唱える"柔道"に傾倒していった理由は、「教育的な理念」と「合理性」にありました。彼は『My Study of Judo』という自著の中で、「講道館が、金銭とは関係のない教育的な組織であり、教育的理念・原理をもって科学的、進歩的に取り組んでいる点に感銘をうけた」と書いています。そして、武道会を中心としたイギリスでは柔道が順調に普及し、武道会はその後、講道館の支部(有段者会)となる予定になっていました。
 また、嘉納師範はアメリカでもイギリスと同様の行動をとっています。例えばハワイでは、大正2(1913)年以降、師範は複数の柔術道場を訪問し、結果的に柔術から柔道へ自然に移行していきました。同じくアメリカ本土でも師範の訪問を機に、特に西海岸を中心に柔道が盛んとなり、日本人移民のアイデンティティの1つとなっていきました。  さらに、IOC委員としての地位と名声が、柔道の普及を押し進めていきました。例えば、昭和8(1933)年7月、嘉納師範はドイツ・ベルリン訪問の際に首相のアドルフ・ヒトラーと面会しています。その前後から、ドイツでは柔道がスポーツ省の中で確かな位置を占め、急速に発展していきます。当時のドイツは、昭和11年に開催される第11回オリンピック・ベルリン大会での国威発揚を目指しており、柔道をオリンピック種目として導入しようと動いていた形跡もあります。一方で、同時期に師範は「柔道世界連盟」構想をベルリンにおいて表明します。しかし、大戦前夜の暗雲垂れ込む中、それらドイツの動きがイギリス柔道界との亀裂を生んでいくことになります。
 
柔道とオリンピック
 では、嘉納師範はオリンピックをどう捉えていたのでしょうか。簡潔にいえば、「体育による青少年教育の推進」「競技大会を介した友好的理念の形成」「優秀な選手の輩出による国民体育への好影響」という捉えによって、師範はいわゆるオリンピック・ムーブメントに加わります。そして、冒頭で述べたように、第12回オリンピック大会の"東京"招致に尽力します。それは、オリンピックが「体育の世界的普及」を目的にするからこそ、欧米のみではなく日本で開催する意味があるという信念によっていました。さらに師範には、西洋のスポーツは素晴らしいけれども柔道をはじめ東洋の運動文化にも良さがあり、それらが相互交流することで共に発展していくという思いがありました。すなわち"自他共栄"主義です。
  では、柔道をオリンピック種目の中に入れることについて、嘉納師範はどう思っていたのでしょうか。先述のイギリス武道会に、昭和11年における師範と小泉の会話として「Judo and The Olympic Games」と題する文書が遺されています。
「現時点では、柔道がオリンピック・ゲームズに加わることについては消極的である。柔道は単なるスポーツやゲームではなく、人生哲学であり、芸術であり、科学である。それは個人と文化を高めるための方法である。オリンピック・ゲームズはかなり強いナショナリズムに傾いており、"競技柔道(Contest Judo)"を発展させることはその影響を受ける。柔道は芸術・科学として、いかなる外部(政治的、国家的、人種的、財政的など)からの影響にも拘束されない。すべてが終局の目的である"人類の利益(Benefit of Humanity)"へ向かうべきものである。」(永木による要訳)
 この文書から、嘉納師範が当時のオリンピックを取り巻く状況を冷静に眺め、自分が創った柔道については(政治・国家・人種・財政等の)"外圧"を避けて理想を貫こうとしていたことが窺えます。先述のように、この文書と同時期に師範は「柔道世界連盟」構想を発表しており、あくまで柔道の理想(精力善用・自他共栄主義)に基づく世界普及を目指していたと思われます。
 
 時は流れ、戦後の世界柔道は、ヨーロッパを中心とした国際柔道連盟の発足にはじまり、世界選手権の開催、そして昭和39年の第18回オリンピック・東京大会における公式種目採用へと続き、今日の発展に至っています。これらは嘉納師範の功績なくして実現不能であったことは間違いありませんが、"あくまで柔道の理想に基づく世界的発展であるべき"という師範の遺志を、今後も我々は忘れてはならないと感じる次第です。

(法政大学スポーツ健康学部 教授)

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