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青年海外協力隊奮闘記 vol.10 -ニジェール共和国-

ニジェール共和国

 福田一博

初出『柔道』平成24年1月号

  

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■ニジェールの基礎知識

 面積は日本の約3.4倍、その国土の3分の2を砂漠が占めます。人口は1500万人を超え、その80パーセントがイスラム教徒です。気候は国土のほとんどがサヘル地帯(※)に属しており、首都のニアメでも気温は50度をこえ、非常に乾燥しています。平均寿命は39歳と短く、識字率は30パーセントと低いです。2009年10月に国連が発表した人間開発指数でニジェールは最下位でした。1日1ドル以下で暮らしている人たちが多くいる国です。

 主要産業はウランで、日本の24時間中、約1時間弱はニジェールのウランによって発電されています。それは東日本大震災がおこるまで、30年以上前から続いていましたが、ニジェールには1つも発電所はありません。

 公用語はフランス語ですが、ニジェール人の多くが現地の言葉を話します。

 ※サヘル地帯:サハラ砂漠南緑に沿って東西に広がる帯状の地域。もとは草原だったが、砂漠化が進んでいる。

 

■略歴

 徳島県立阿波高等学校を卒業後、愛知大学へ進学し、大学在学中に青年海外協力隊に応募しました。

 

■参加の動機

 大学の先輩がザンビア隊員として活躍されていました。そのことが青年海外協力隊を知るきっかけとなりました。私は以前から、学校の先生になって柔道を教えたいと考えていたので、教員になる前に海外で柔道指導をすることは自分にとってプラスになると想い、受験しました。

 大学在学中に、中国で4ヵ月間、中国語を勉強しながら中国の体育大学の学生と柔道をしたことで、柔道を通した国際交流の素晴らしさを知ることができました。また、青年海外協力隊短期ボランティアとして1ヶ月間、ザンビアに行き、先輩の活動を見て、実際に海外で柔道指導を経験したことも、参加の意欲を高めてくれました。

 

■配属先

 配属先はニジェール柔道連盟です。ナショナルチームコーチとして連盟に入り、ナショナルチームへの指導、首都ニアメのクラブ巡回指導を任されていました。子供から大人まで幅広い年齢層に対して指導しました。

 

■ニジェールの第一印象

 飛行機の中で上空からニジェールを見たときに、緑がほとんどなかったのを覚えています。常に砂埃が舞い、非常に乾燥していて、すぐに喉が痛くなりました。街はゴミだらけで、その中を何十頭もの山羊や羊が歩いていたことも新鮮でしたが、首都をラクダが歩いていたのには驚かされました。人は穏やかで親切な印象を受けました。

 

■現地の柔道の状況

 資金がないために、国際大会は遠い国へは行けないので、燐国である大会にのみ、ナショナルチーム選手数名が参加していました。国内大会の開催は年に1回という状況でした。そんな状況でしたが、柔道を好きな人は多くいました。「柔道をやりたい」という言葉を何度も言われました。しかし、お金がないことが原因で、柔道ができない子が多くいたり、ナショナルチームの選手でも辞めたりしていました。多くのニジェール人柔道指導者が「10年前のほうがもっと選手がいた」と言っていたように柔道人口は減っているのではないかという印象を受けました。

 

■カルチャーショック

<柔道>

 外国人選手は柔道の派手な部分やかっこいい部分に惹かれているというイメージを持っていました。実際にそういった部分もあると思いますが、日本から遠く離れたアフリカでも、日本の柔道を学びたい、日本の教えや文化を学びたいという人の多さに驚きました。また、稽古中にあまりにも周りを見ないことに驚きました。寝技、投げ込み、乱取り等、日本人なら他の人にぶつからないように意識して、立ち位置を考えます。ニジェールの人は一人一人、かなりのスペースを確保しないと、すぐにぶつかってしまいます。普段の生活でも話しているだけで熱くなり、周りが見えなくなります。ニジェール人の性質なのかもしれません。

 

<柔道以外>

 ニジェールでは、国民の多くがイスラム教徒で、毎日、朝からコーランがなり、お祈りが始まります。中東に比べ、宗教心は薄いと聞いていましたが、多くの人がイスラム教の教えを守り、信じていました。日本ではあまり感じることのできないことだったので新鮮でした。

 柔道の大会の時期と、イスラム教の断食が重なったとき、選手は水を一滴も飲まず稽古していました。また、ニジェールに着いて1ヶ月半が過ぎた頃に、クーデターがありました。

 ちょうどお昼時で、私は外で昼食をとっていたら、爆発音と共に地面が揺れ、銃声が聞こえてきました。JICA事務所の近くにいたので、事務所まで全力で走ったのを覚えています。クーデターがいつでも起こりうる状況もそうですが、初めて爆発音や銃声を聞いたので、驚きました。さすがにクーデターの日は、ニジェール人も逃げて、街から居なくなっていましたが、次の日には、普段の生活に当たり前のように戻っていました。

 

■現地の活動

 派遣要請内容は、ナショナルチームへの指導、及び首都ニアメのクラブチームへの巡回指導だったので、2010年の2月、赴任と同時にナショナルチーム、クラブチームへの指導が始まりました。ナショナルチームは子供、ジュニア、シニアがあり、ジュニアとシニアは一緒に稽古をしていました。それぞれにコーチがいて、稽古についてはコーチと一緒にメニューを考えていくつもりでしたが、赴任当時はコミュニケーションがうまくいかず、稽古メニューを全部任されたり、コーチが全部やる時もあったりと、ぎこちないふわふわした稽古が続いていましたが、しばらくするとコーチ陣とも仲良くなり、稽古について話し合う事も増えてきました。今想うと、ぎこちないのは当たり前のことで、新しくやってきた日本人を警戒するのは当然です。コーチだけでなく選手との距離も、時間と会話、毎日の柔道が縮めてくれたように思います。

 

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     ニアメ市内柔道教室              アフリカ大会にて

  

 4月になると、アフリカ大会のような大きな大会が続くようになりました。7月にはアフリカジュニアが西アフリカのセネガルであるということで、ニジェールは資金があまりないのですが政府からの援助によって、5名の選手を大会へ送り出せることになりました。

 そこで大会前に1ヶ月近く合宿を行うことになりました。道場の近くの建物に泊まり込み、日中は50度という猛暑の中の稽古が始まりました。筋力トレーニングの時間もあったのですが、ニジェールは資金の関係上、ナショナルチームといえど、身の回りの物を使ってトレーニングを行なっていかなければなりません。器具等があればもっと効率よくトレーニングができるのかもしれません。実際に私自身は器具等には苦労せずに柔道を続けてきました。柔道衣も畳も筋力トレーニング用の器具も、あまりない国ですが、多くの選手が自分にできることを考えて柔道に打ち込んでいました。

 

 アフリカジュニアへは私自身も業務出張という形で同行しました。これはアフリカでのニジェールの現状を把握し、今後の稽古に生かすという理由がありました。大会結果は個人戦に4名が出場し、3位1名、5位入賞2名という結果になりました。この結果がどれほどのものかわかりませんが、あの状況から考えると、選手たちはよくやったと想います。他の国に比べて力がなく、身体も小さかったのですが、大会最終日の団体戦でも格上の相手に対して引き下がらずに、堂々と試合をしていました。

 また、ホテルや試合場での礼儀、態度もしっかりとしていて、4ヶ月程でしたが、柔道の精神の部分に重点をおいて活動してきて良かったと感じました。

 その後は、10月にモロッコで開催された世界ジュニアに、任国外旅行を利用して同行しました。また、ニジェール国内の全国大会の際には、代表選手の選考を任されるなど、1年ほど経ったときには多くのことを頼んでくれるようになったので嬉しかったです。基本的にナショナルチームの稽古は週3回あり、ナショナルチームの選手と接する機会は非常に多かったです。

 クラブ巡回指導はニアメ市内にある6ヶ所の道場を巡回するので、各クラブのコーチや選手とは1回会ったら2週間は会わない時もありました。コミュニケーションにおいてはその点が、巡回指導の大変なところでしたが、時々しかこない日本人の下手なフランス語と現地語の混ざった技の説明であっても、一生懸命聞いてくれました。

 その他の活動は、ニジェールのコーチ陣3名と共に地方巡回指導を行いました。また、クラブ対クラブの小さな試合を開催し、学校単位での柔道教室も行いました。ニジェールには合気道、剣道、空手といった隊員がいたので、空手の西アフリカ大会、ニジェールの全国柔道大会では、武道講習会を開いたり、演武を行なったりしました。軍隊や他の職種の隊員が通う病院においても演武を披露しました。

 

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 ニジェール国内大会での演武

 

 この頃、ニジェールに来て1年が経ったあたりでしたが、2011年1月にアルカイダによるフランス人2名の拉致殺害の事件が自宅近くの飲食店でありました。これを理由に、アメリカのボランティアであるピースコーが撤退しました。ニジェールにおけるアルカイダの活動が活発になっていたものの、フランス人を狙った拉致という見解から、私たち日本人は、夜間の不要不急の外出は避けての活動を続けることになりました。しかし、事件から2ヵ月が経ったとき、ついにフランスのボランティアが撤退し、日本人が狙われるリスクが高まったという理由で、私たちも日本に帰らなければならなくなりました。2年間という約束だったのに、突然の帰国で柔道連盟やコーチ、選手には申し訳ない気持ちと、2年間、ニジェールにいたかったという悔しさでいっぱいでしたが、やむを得ない状況でした。ここで私の1年3ヶ月の活動は終わりました。緊急帰国から4年たった現在もニジェールへの青年海外協力隊の派遣は再開されていません。

 

■1番嬉しかったこと

 私も出張で同行した、アフリカ選手権で選手が3位に入ったことです。この大会前には1ヶ月ほどの合宿を行い、大会に臨みました。長い合宿で、選手が努力していたのを見ていただけに、感動が大きかったです。また、試合場での態度や礼等がしっかりできていたことも嬉しく思いました。

 

■1番辛かったこと

 私が至らないばかりに起こってしまったことなのですが、東京での世界選手権に2名の選手の出場が決まっておきながら、出場できなかったことです。国際柔道連盟の招待という形での出場だったので、旅費は国際柔道連盟の負担でした。ニジェールは日本のビザを取得するだけだったのですが、ビザ取得の際に、日本大使館で、私のカウンターパートであるコーチの態度が悪かったためにビザが取得できないという事態が起きてしまいました。選手2名はビザを取得できたのですが、責任者であるコーチが、ビザを取得できなかったということで、出場できませんでした。もっとしっかりカウンターパートのことを理解し、事前にしっかりとコミュニケーションがとれていれば、こんなことはなかったと想うと、悔しい気持ちになりました。

 

■その後

 ニジェールでは緊急帰国という形での活動終了で、2年間という約束にもかかわらず、ニジェール柔道連盟、選手と離れることになりました。やっている途中の事、計画していた事など、諦めた事も多かったです。帰国後、時間もありニジェールと離れて、改めて活動を考えることが多くありました。

 また、緊急でニジェールを出発したのが2011314日、帰国したのが316日ということもあり、東日本大震災の被災地へボランティア活動に行けたことで、その後の活動を考える柱が見えてきました。

 

 次の任国がガボン共和国に決まり、ザンビア、ニジェール、緊急帰国の経験を活かし、気持ち新たに、残り少しの任期で自分にできることをやっていきたいと考えました。ガボンではすでに矢部隊員(22年度1次隊)が活動していたので、矢部隊員と一緒に活動することが多かったです。ガボン柔道のために、矢部隊員の力に少しでもなれればという気持ちで残りの任期を過ごしました。帰国後は中学校の社会科教員として、部活動では柔道部の顧問として、生徒たちと日々の生活を送っています。

 

■さいごに

 2年間で2ヵ国において活動を経験することはなかなかできません。ある意味、貴重な体験ができたのかもしれませんが、2年間日本に帰らずに、ニジェールでいると決めていたので、拍子抜けしてしまった部分もありました。しかし、今となってはガボンで柔道ができたことも良かったと感じています。

 

 ニジェール人は私が帰国すると聞くと、ものすごく悲しそうな顔をしました。急なことで受け入れられないというようなことを言っていました。私自身、受け入れることはなかなかできませんでした。そんな時、ニジェール人はあっけないほど、悲しむのをやめます。これはニジェール人のいい部分だと想うのですが、悲しんでも仕方がないことはクヨクヨしません。決して悲しんでいないわけではありません。悲しみながらも、それを受け入れているのです。

 ニジェールでの活動は13ヵ月、ガボンでの活動は半年という短い時間でしたが、ニジェール人、ガボン人と一緒に柔道をした時間はかけがえのないものでした。

 今後は中学校教員として生徒の立場に立ち、違いを乗り越え他者を受け入れることができる生徒を育てたいと考えています。

 

 ニジェール柔道のためにもニジェールのためにも、青年海外協力隊の派遣が再開されることを祈っています。私が派遣されるにあたって、ご指導、支援していただきました、講道館の先生方、「世界の笑顔のために」ハートプロジェクトプログラムの際、柔道衣を集めてくださった先生方、ボランティアで柔道衣をニジェールまで送ってくださった皆様に、この場をお借りして心からお礼申し上げます。

 

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■帰国後、現在の福田さん

 現在は地元の阿波市立阿波中学校にて社会科教員、柔道部顧問として勤務しています。

 

 

この記事は、講道館発行の機関誌『柔道』に掲載された記事を加筆修正再編集したものです。
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